ピストンリング及びシリンダースリーブの早期磨耗
1985年9月、当時の船外機は2サイクルエンジンが主力で、単気筒2馬力からV6-200馬力までの15モデルがコロンビア向けとして、ラインアップされていた。私が入社した当時は景気が低迷していた時期で、年間2,000台程度しか売れていなかった。市場規模としては4,000台位あると聞いてた。数あるラインアップの中でも二気筒25馬力の船外機が一番売れていた。
会社は同族経営で会長が親父さん、私を抜擢した社長が長男、三男はFRPボート工場の最高責任者兼営業部長、長女が財務担当、次女が首都ボゴタの支店長、末の三女が広告室長として働いていた。当時の従業員数は合計で約400名ほどが働いていた。なお、次男は私が入社する以前にサービス部門の責任者であったが、独立して米系の船外機輸入販売会社を経営していた。
この会社は船外機の輸入販売代理店としては歴史が古い。昔は米系の船外機を取り扱っていたが、ある時、何台も同じ故障が続いたにも関わらず、メーカーは無償修理を認めなかったことから喧嘩別れをしてしまい、日系の船外機メーカーと輸入代理店契約を交わしたと聞いた。当時、米系の船外機ブランド名は、船外機の代名詞になっていたくらい有名であった。そのラインアップには、すでに90馬力V4エンジンを保有していたが、日系メーカーはようやく2気筒15馬力の船外機程度しか保有していなかったようで、技術力の差が歴然としていた。
その後、日系メーカーは、米系メーカーが積極的に進出していなかった途上国の小さな市場を地道に開拓し、徐々に技術開発を進めて行った結果、ラインアップを構成するモデルの数が年々増えて行った。信頼性と耐久性に優れる船外機としてユーザーに受け入れられ、いつしか世界的な販売台数は米系のメーカーと逆転するようになった。
私が入社したメデジンの会社におけるサービス部門の責任者としての仕事の中で、客からのクレームを適切に処理する事が非常に重要視されていた。処理の順序として、初めに工場長がユーザーから故障時の詳細な話を聞き取る。そして故障した船外機を熟練したメカニックが分解して故障内容の分析を行い、故障の原因と修理に必要な見積書を作成する。工場長がメカニックと現物を確認して、最後に彼らの報告を元に私が確認をして最終結論を出した。
初めの頃は私が未経験者の為、わざわざ親子3人揃い踏み(会長と社長そして営業部長)で修理工場に集まり、故障したエンジンを見ながら故障原因について真剣に討議をしてから対応が決定された。分解されたエンジンを前に彼らの話している技術的な内容は深く、初めて聞いた時は簡単に口出しすることが出来ないほど驚愕した事を覚えている。
ピストンの頭部に付着したカーボンの状態から、使用されているエンジンオイルの違いを見分けるなど、特にオイルに関してはメカニック以上の知識があった。販売された船外機の保証はプレジャー使用では1年間、そして業務として使用される場合は半年間の期間が定められていた。この保証期間中は推奨エンジンオイルを使用することが絶対条件とされていた。他のオイルを使用した形跡や証拠が見つかれば無償修理は却下された。
会社の規模は小さかったが米国の有名な会社からオイルの添加剤を購入し、コロンビアシェルから購入したベースオイルとブレンドして、独自の空冷用と水冷用の2サイクルエンジンオイルの製造販売を行なっていた。なんとコロンビア国内の2サイクルオイルの販売量は、世界的な石油会社よりもトップシェアを維持していた。
最初の頃は彼らの討論中に意見を聞かれても慎重になり、ハッキリした意見を言う事は出来なかった。私は毎日そして家に帰ってからも、エンジン関係の専門書や空冷と水冷用2サイクルエンジンオイルの資料、そしてメーカーが纏めた過去の改良点等の資料を読むことで、オートバイ修理をしていた時よりも徐々に故障したエンジンとその原因について、工学的な判断を下せるようになった。そして2か月もすると、クレーム処理は私一人で対応させてもらえるようになった。
そんな折、太平洋岸のエクアドルに近いグアッピ村の支店から、故障した2台の25馬力のエンジン部分がクレーム申請書と一緒に送られてきた。村は海に面しておらず、グアッピ川を6キロほど内陸に入ったところにある。メデジンからは道路では行けない。飛行機でメデジンから南のカリへ飛び、小型機に乗り換えてから行くことができる。大半の住民はココナッツの栽培、零細漁業で生計を立てている。一般的に長さが8mほどの木製のカヌーと25馬力船外機が零細漁業に使用されていた。
コロンビアの太平洋岸は世界的に見ても降雨量の多い熱帯雨林と、険しい山脈で内陸の都市から隔てられており人口も非常に少ない。港町のブエナベントゥーラを除けば太平洋岸に大きな街は無い。太平洋岸に出る道路はカリに近いブエナベントゥーラと、エクアドルの国境に近接したトゥマコへ行く2本しか通っていない。そして太平洋岸の住人のほとんどが、スペイン人によってアフリカから奴隷として連れてこられた黒人系の人達である。
私が入社する以前からこのモデルだけ、グアッピから同様な故障で数台のクレーム申請が起きていた。その故障とは、エンジンが新しいにも関わらず、ピストンリングとシリンダーの磨耗が異常と言えるほど早く起きた。また分割式のクランクシャフト(一本物ではなく、クランクが組立て式で4分割出来た。)の圧入した嵌合部分が緩んで、ガタが出ると言うクレームもあった。
工場長の説明によると太平洋岸だけでなく、コロンビアの田舎、特に道路が通っていない所で販売されているガソリンの質はとても粗悪であり、エンジンオイルも価格の安い空冷2サイクル用のエンジンオイルが主流となっているそうだ。今回も工場長とメカニックが出した結論は、保証期間中に推奨オイルを使用せずにエンジンに不具合が起きたという理由で、無償修理は認めないという意見であった。
話を聞きながら分解されたエンジンを見ると、2台とも購入後3ヶ月程度しか使用されていなかったため、外観は綺麗であった。しかし、シリンダーヘッドやピストンヘッド、そして排気管にはかなりカーボンが堆積しており、クランクシャフトやクランクケースの壁もうっすらと汚れていた。そしてピストンリングは磨耗してペラペラになっていた。小さな燃料フイルター内に残っていた燃料の色は、確かに他のオイルメーカーが販売している空冷2サイクル用エンジンオイルと同じ色であった。
コロンビアではピストンリング交換の目安として、エンジンの使用時間が約1,000時間前後と言われていた。3ヶ月でこの使用時間に達することはない。ましてや零細漁業として使用されているのでは、こんな短期間でピストンリングが摩耗することは絶対に起こらない。ここまでリングやエンジンスリーブが磨耗するには1年以上は掛かる。私も彼らの意見と同じく、空冷2サイクルエンジン用オイルを使用していたという理由で、無償による修理を却下した。しかし、決定したにも関わらず、心の隅に何か違和感を感じていた。
私は以前、ピストンリングの早期磨耗と言うトラブルを見た事がある。それはたまたま友人のオートバイ修理屋を訪ねた時、友人が1ヶ月前にチューンアップした自動車、ミニクーパーの磨耗したピストンリングを見ていた。原因がハッキリしないという事であったが、高回転に仕上がったエンジンには、高性能のウェーバー製のキャブレターが付いていた。そして、レーシングエンジンのように、キャブレターにはアルミ製のファンネルが付いており、エアーフィルターは付いて無かった。
分解されたエンジンを見せてもらうと、足元に黒くなったオイルがバケツに入っており、オイルを指で触って感触を確かめて見た。すると、指の腹にコンパウンドのようなすごく細かなざらつきを感じ、それで原因が分かった。レーシングエンジンのようにエアーフィルターが無いので、空気を吸気する抵抗は少ないが、大気中の細かな砂ぼこりを吸い込んでいたのだ。これがオイルと混ざって、ピストンリングの早期摩耗に繋がったと確信した。多分、ユーザーは郊外の未舗装路を走ったのではないかと思われた。その後、このエンジンは新しいピストンリングに交換され、ファンネルには米国製の吸気抵抗の少ないエアーフィルターを装着することで対応された。
25馬力の船外機のピストンリングを見た時、このミニクーパーの件を直ぐに思い出した。船外機も最初からエアーフィルターは付いていない。しかし、船外機は水上または海上で使用されることから、基本的に砂ぼこりなどの対策を考慮する必要はない。原因が空冷2サイクル用エンジンオイルだけでは無いような気もしたが、当時の私の実力では、他に原因となるような事を見つけることは出来なかった。
因みに2サイクル空冷エンジンと、2サイクル水冷エンジンに使用するオイルの大きな違いは何かと言うと、ベースオイルに混ぜる添加剤が異なる。それは冷却方式によりエンジン燃焼室周りの温度が大きく異なるからである。水冷の方がよくエンジンが冷える為、空冷よりも稼働中の温度が低い。エンジン燃焼室やピストンリング周りのカーボンを取り除くために、低い冷却温度で効果のある無灰清浄添加剤が使用されている。名前の通り、燃焼後に異常燃焼の原因となる灰が生成されない。大馬力の船外機エンジンには必需品だ。
空冷用の添加剤は高い温度に有効な金属系の洗浄添加剤が使用されている。空冷用のオイルを水冷大馬力エンジンに使用するとカーボンの洗浄力が劣り、黒くて硬いカーボンが付着してピストンリングがピストンのリング溝に膠着したりする。また燃焼室内やピストンヘッドへのカーボン堆積により圧縮圧力が上がり、燃えカス(灰分)が火種となって異常燃焼を起こしてエンジンを破壊する恐れがある。
それから1年ほど経って、グアッピ村に出張する機会があった。現地の漁師の使用しているカヌーやプロペラサイズ、エンジン最高回転数の点検、そして船外機の使用パターンを確認したが、何も問題となる点は見つからなかった。支店のメカニックと意見交換をすると、推奨しているオイルを使用しているユーザーのエンジンにも、ピストンリングの早期摩耗が起きており、いまだに原因が分からないと言うことであった。不思議なことに同じモデルの船外機で、カリブ海や河川、湖などで使用されている他の地方から、このクレームは起きていなかった。
数ヶ月後、コロンビアの北西部、北緯6°に位置する太平洋岸に面したバイアソラーノに出張した。最終日、昼の小型機でメデジンに帰る準備をしていたところ、朝食後に親しくなった地元のメカニックと漁師が来て、海に潜って魚をモリで突いてくるから土産に持って行けと言われた。時間は大してかからないと言うので、一緒にカヌーで朝靄がかかった海に出た。
潜る場所は海岸から確かに近く、直ぐに漁師がゴーグルの準備を始めて海に手を入れると、「今日はダメだ、水が冷たすぎる。」と、言った。冗談を言っているのかと思い、笑いながら自分も手を海に突っ込んだ。あまりにも冷たいので、驚いて手を引き抜いた。気温は26°くらいだったと思うが、海水温は氷水に手を入れたような感覚がしたほど冷たかった。漁師に聞くと季節によって海水温がとても低くなる日があると言っていた。
帰りの機中で海水温が低くなる原因を考えてみた。可能性として初めに南のチリから上ってくる冷たいフンボルト海流の影響を考えてみたが、フンボルト海流はエクアドル沖で西へ大きく曲がってガラパゴス諸島へ向かう。だから赤道直下の島にもアシカなどが生息している。流石に赤道から北へ6°も離れているバイアソラーノに直接な影響はないように思えた。他には、赤道の海流の影響で深海の冷たい海水が、海底の地形によって海面まで上昇してくる湧昇流の可能性が有ると思った。または、両方の影響があるのかも知れない。このようなことは都会の修理工場に居て、壊れたエンジンだけを見ていては絶対に故障原因が分からない。各地に出張して現地事情を肌で感じる必要性があると思った。
メデジンに戻ると、グアッピから1台の25馬力船外機のクレーム申請が届いていた。いつものようにメカニックが分解し、故障原因について工場長と意見交換した後、私が呼ばれた。思ったようにピストンリングの早期摩耗が起きたエンジンであった。今回は推奨された水冷用2サイクルエンジンオイルを使用していた。同梱されていたグアッピ村のメカニックからのレターにも、購入してから故障するまで推奨オイルを使用していた事が書かれていた。
詳細を聞くと、私が入社する数年前に、25馬力船外機は新型モデルに変わったそうで、新しいモデルになってからカリブ海側でエンジンが焼き付くケースが続いたそうだ。常夏のカリブ海の海面温度は基本的に気温と変わらないことから、エンジンの冷却能力が落ちて焼きつき易いと判断されたそうだ。この対策として、冷却能力を上げるためにこの25馬力だけは例外として、日本の工場からサーモスタットが無い状態で出荷されることになった。と言う説明を受けた。サーモスタットが付いてないと、冷却水量が増えてエンジンの作動温度が低くなるからだ。
前回のようにオイルが原因と言うわけでは無かったので、メカニックも工場長も困惑していた。私もバラバラに分解されたエンジンのパーツを丁寧に見て行ったが、特に原因は特定できなかった。その時、サーモスタットが無いことに気が付いた。工場長に聞くと初めから付いてないと言う。「オーナーが抜いたのか?」と聞くと、「いや、初めからこのモデルだけはサーモスタットが付いて来ない。」と、言う返事が返ってきた。
私は全ての船外機にサーモスタットが付いているものと思い込んでいたので驚いた。以前出張に行ったネチ村の40馬力船外機の水滴混入トラブルを思い出した。また、頭の中に太平洋のグアッピの情景が浮かんだ。そして、バイアソラーノの冷たい海水温も同時に頭に浮かんだ。
事務所で一人になって自分の頭の中を整理した結果、信憑性の高い仮説を組み立てた。先ずは、カリブ海と太平洋岸の海況がとても異なるということだ。太平洋では海水温がとても低くなる時期(季節?)があると言う事。その時期に、波が荒いとカヌーのスピードを落とすため、必然的に船外機のエンジン回転を落として航行する。この状況下サーモスタットが付いていないと、エンジンが過冷却状態になり燃焼室に水滴が生成される。またエンジンによっては、ある回転域で振動が増えるケースがあるので、分割式クランクシャフトの緩みの原因の可能性の一つとも言える。
コロンビア製の安いガソリンはオクタン価が低いだけでなく、硫黄分が多く含まれている。この硫黄分が燃焼により硫酸ガスを形成し、過冷却により燃焼室内に硫酸の水滴が溜まる。そしてピストンリングやシリンダースリーブが硫酸による腐食が原因となって、早期異常磨耗を起こすことになる。なお、サーモスタットが付いている他の馬力の船外機には、この問題が起きていないことを現地のメカニックに確認する事ができた。そして、旧モデルの25馬力船外機もサーモスタットが付いていたので、この問題は起こらなかったのだ。
この説明はかなり信憑性が高いので、日本のメーカーにレポートを書いて修理代と部品代を請求し、ユーザーには無料で修理することにした。なお、この修理したエンジンにはサーモスタットを組み込んだ。また、グアッピ村の支店のメカニックにも原因を説明し、早急に他のユーザーの25馬力船外機へ、サーモスタットを装着するように指示を出した。
また、この件について会長と、社長及び営業部長の3人に詳細を説明し、会社から改めてメーカーに対してサーモスタットの装着を依頼した。なお、メーカーには異なる水温で作動する、2種類のタイプのサーモスタットがあった事から、カリブ海の海水温も考慮して、エンジンがオーバーヒートしないように、より早く、低い水温で開き始めるサーモスタットの方を装着してもらうことにした。
後日、25馬力船外機の動向を注視していると、グアッピ村で起きた問題は解消し、尚且つカリブ海側から、エンジンが焼き付いたという問題も起きなかった。無償修理を承認する条件とは言え、推奨オイルを使用していなかったエンジンに対して、無償修理を却下したことが心の隅で少しだけ申し訳ない気持ちがした。
今回の件で、故障したエンジンだけ見ていても原因が分からず、つくづく使用条件や環境特性などを知ることの重要さを肝に銘じた。