A. 20才の秋、旅に出た。(7/16)メキシコ編 

A.20才の秋、旅に出た。

ビバ、メヒコ 11/2 晴れ メキシコシティー

久しぶりのバスでの長距離移動は疲れる。エルパソからメキシコシティーまで24時間位かかった。メキシコも広大だ。アスファルトの道路が一直線に伸びている。時折道路から見える町、と言うより村ばかりでかなり貧しく感じられた。空気が乾燥しているので夜になると空一面にものすごい数の星が見えた。途中、休憩所のレストランで食事したときペソを持っていなかったのでドルで支払った。言葉が通じないので何かだまされているような気がした。

メキシコシティーのバスターミナルにはすっかり暗くなってから到着した。ターミナルの外に出てみるとメキシコシティーの郊外に居るようで、周囲にはまったく街の明かりが見えなかった。スペイン語は全然分からないので不安になったが、夜なのに子供が多かった。僕を見るとナンダカンダと言いながら沢山寄ってきた。メキシコでは子供の泥棒も多いと聞いていたので、用心して一旦ターミナルの中に戻りトイレに入った。

一人旅なのでトイレに行くときでも荷物の番は誰にも頼めず、自分でしなければならない。本来なら気の合う相棒と二人で行く方が心強いし、宿代もシェアすれば安くなる。背中にバックパックを背負い、ニューヨークで買ったお気に入りのキャンバスバックに貴重品を入れ、胸に掛けて両手を自由に使えるようにした。このスタイルは我ながら様になっていて気に入った。

持っていた市内地図も載っている範囲が狭いし、方角も分からなかったので、近くにいた靴磨きの子供をつかまえ、6ヶ国語会話の本に出ているスペイン語のフレーズを読み上げてみた。「中心街に行くバスはどれですか?」、2回言っても通じないので、スペイン語で書かれている箇所を見せた。ようやくわかってもらえたが、スペイン語で返事をされてもこっちは分からない。僕が困惑して見せると、僕の手を引いて近くの止まっているバスまで連れて行ってくれた。

メキシコシティーのセントロ(ダウンタウン)行きのバスは混んでいたが、20分ほど乗っていると、確かにメキシコシティーに向かっているようで、街の明かりが見えてきた。市内に入ると大きなホテルの看板が幾つか見えたので、そこで降ろしてもらった。

大きなホテルの周りには小さな安ホテルもあるだろうと思ったからだ。知らない町を夜一人で歩くのは危険だが、外灯も明るくまだ人通りがあるので歩くことにした。すぐに小さなホテルの看板が見つかり、片言の英語でなんとかチェックインできた。部屋に入ると、ドッと長旅の疲れがでた。シャワーを浴びた後ベッドに入るとすぐに寝落ちした。

アメリカではなんとか英単語だけでも旅行して来られた。途中から旅に慣れてきたせいもあって、あまり日本との違いも感じなかった。しかし、メキシコは違った。スペイン語を話す国だ。英単語もほとんど通じず、文化的にもすごく異質な感じを受けた。あらためて外国に来たという印象を強く受けた。1ドルが12.5ペソで、このホテルは60ペソ(4.8ドル)だった。一見、連れ込み宿みたいな安っぽいホテルだ。期待していたほど物価は安くなかったので、ちょっとガッカリした。

11/7 金

一昨日、昔から憧れていたメキシコシティーの郊外に位置するテオティワカンの遺跡へ行った。遺跡内で二人の観光客らしくない日本人に出会った。遺跡の一角に、洞窟のように見える大きな岩陰になった場所にレストランが併設されていた。そこで雑談をしながら一緒に昼ごはんを食べた。一人は日本から来た初老の紳士で、もう一人はメキシコに来てから4年になるヒヨコの鑑別士さんだった。鑑別士さんは週に二回働くだけで、30万円以上稼ぐそうで驚いた。初老の紳士は名古屋から来た画家で、一ヶ月滞在する予定だそうだ。この画家の人と同じホテルに一緒に泊まる事にした。大統領宮廷のすぐ裏で、安くてきれいなホテルだった。

昨日、ビジャエルモーサに着いた。バスはメキシコシティーの郊外から出ているものと思っていたが、市内のブエナビスタという所から出ていた。何人もの人に聞きながらようやくたどり着けた。夕方6時発の夜行バスに乗る予定だったが、遅れてしまいターミナルに着いた時点で出発時間を過ぎてしまっていた。チケットの売り場でどうしようかと迷っていたら、もう少し待てと言われた。なんのことはない、バスの出発が丸一時間遅れていたのだった。

ビジャエルモーサは想っていたよりもずっと大きな町であった。町外れを流れている茶色く濁った川を眺めていると、なんとなく東南アジアの国にいるような錯覚を起こす。ここは湿度が高く、日中はちょうど日本の真夏のような体にまとわりつく暑さだ。周囲は熱帯の花や木々が植えられていて、うるさいほど小鳥の囀りが聞こえてくる。本当に異国情緒をたっぷり感じる場所だ。

朝、小さなレストランでメニューをもらい、目を瞑って適当に料理の名を指さした。なんだかわからない赤いスープのような土地の料理が出てきた。味がわからないほど辛かった。口中はもちろん腹の中まで辛くなった。小さくカットされた野菜と、グニャグニャする肉?食感が気持ち悪いので皿の隅に避けたが、あまりにも辛いので食べ切る事はできなかった。町を歩いていていると、露天でゴム草履が売られているのを見つけた。13ペソで買ってから、値切るのを忘れて損したような、それでいて日本で買うより安かったので得したような、変な気分になった。

11/8 土 晴れ メリダ

昨日ビジャエルモーサのバスターミナルで、エクアドルに派遣されているという海外青年協力隊員の日本人と出会い、彼から訪ねてこいとエクアドルの住所をもらった。会いに行けたらいいなと思った。

乗合バスでパレンケに行った。予想どおりにすばらしいマヤの遺跡だった。深い緑のジャングルの中に囲まれた遺跡はすごく神秘的だった。ピラミッドの地下にある石棺に彫られたレリーフは、人がロケットを操縦しているようだと言われている有名なものだ。写真でみたことがあるが、ピラミッドの地下室に横たわる本物はさすがに迫力があった。

パレンケの遺跡を見学中に二人の東京から来たという日本人旅行者と出会った。一人は小さな声で話す髪の長い大沢という人。もう一人は長身で髭を生やした山岸さん。この人はパンタロン風のジーパンにジャケット、そして洒落たつば広の帽子がとてもよく似合う。サンパウロからリマまで陸路で移動し、リマからメキシコまで飛行機で来た人だ。彼の荷物は肩に下げたショルダーバックと、丸めた小さな毛布をそのバックに縛ってあるだけで他に何も持っていない。とてつもなく軽装備で驚いた。

彼の体験談はとても面白く、南米のアルゼンチンは物価が驚くほど安いと言っていた。僕は自分の懐具合からメキシコ観光後はロスに戻り、アダルトスクールで英語でも習おうかと考えていた。南米旅行はとても行きたいが、資金が足らないのであきらめようと思っていたのだ。しかし、彼の話を聞いているうちに再び行く気になった。南米を周ってから来年の2月のはじめに日本へ帰れば、兄の結婚式に出席できそうだ。

山岸さんの予定は、メキシコの後に陸路でグアテマラシティーに行き、そこで旅行中知り合った日本人と合流するそうだ。その人は陸路で南米から北上して来るようで、さっそく山岸さんに頼んで、グアテマラシティーまで同行させてもらうことにした。

山岸さんが旅の途中で知り合った一人の日本人旅行者の話をしてくれた。その旅行者がカンクンのバスターミナルで安宿を探しているとき、日本語を話せるメキシコ人から安く家に泊めるから来いと誘われてついて行った。入った所が電気も無い薄暗い土間で、中に居たメキシコ人達の雰囲気も悪く、空手を知っているかとか、金は日本か懐かとか聞かれたので危険を感じた。そこで彼らを刺激しないよう、平静を保ちながら飯を食いに行くと言って外へ出た。彼らが一緒についてきて、レストランはあっちだと言う方向を見ると、暗い横道であった。本人はやっとの思いで明るい人通りのある路へ逃げて来たそうだ。

この人は他にも怖い目にあったらしい。彼がグアダラハラに滞在してスペイン語を習って居た時、ある晩もう一人の日本人と一緒に宿へ歩いて帰った。近づいてきたパトカーが止まり、突然、怒鳴りながら酔った二人のポリスが出てきた。二人とも壁に後ろ向きに並ばされて身体検査を受けた。その時、彼はポケットに入れていた50ドル、もう一人は200ドルの現金を盗られたそうである。抵抗しようとしたら警棒で殴られそうになったらしい。夜も遅かったので暴行を受けても証人はおらず、おとなしく金を渡すしかできなかったそうだ。メキシコではどんな理由でも警察署まで行ったらもっと危ないそうで、賄賂で済ませるのが一番だと、その人は言っていたらしい。

11/12 快晴

一昨日、有名なチチェンイッツアの遺跡内でメキシコ人の学生数人と知り合いになった。彼らはバスをチャーターしており、山岸さんと僕はその場に居た日本人の留学生カップルと一緒にバスに乗せてもらった。行き先はユカタン半島の先端に位置するイスラ・ムへーレスと言う小さな島だった。車中、陽気な彼らは踊りながら歌をうたい、楽しかった。僕も一緒になって踊ったが、日本人は酒でも飲まなきゃあそこまでやれない。

イスラ・ムヘーレスとはスペイン語で女の島という意味だそうで、昔、海賊が誘拐した女達を連れてきたからこの名前がついたと言われている。小さな島であるが人が住んでいて、まともなホテルは一軒だけあるそうだが、かなり高いらしい。半島先端にある桟橋から小島が見える。小型の連絡船に乗り、船縁からとてつもなく綺麗な海の底を眺めながら島へ渡った。

僕らは全員で島の端に在る安宿に泊まる事にした。そこは幾つかの小屋が集まってできており、中央の白い砂浜にテーブルとイスが出ていてレストラン兼ロビー?になっている。建物は掘っ立て小屋だ。床も無く砂浜にヤシの葉でふいた屋根、天井の梁から吊るしたハンモックで寝る宿だった。客は大半が西欧人のヒッピーみたいな貧乏旅行者だった。

その夜、ハンモックで初めて寝るが、体が丸まってエビになり寝返りができなかった。翌朝、起きたら体中が痛かった。そのことをメキシコ人に言ったら、体をハンモックに対して斜めに寝れば、体が丸まらず水平に寝ることができるので、体が痛くならないよと言われた。なるほど、教えられたように寝たら翌朝から体が痛くならなかった。

翌日、メキシコの学生達に誘われて、8ドル出して舟遊びに行った。メキシコ人の学生がアメリカ人の学生らしき女の子を一人連れてきた。島の対岸、カンクンの砂浜まで連れて行ってもらった。僕ら以外は誰もいない。足跡がまったく無く、どこまでも延々と続く真っ白な砂浜で泳ぐことが出来た。海水がとても澄んでいて、打ち寄せる波が透けて向こう側が見えた。ここの海は本当に透き通っている。もうこんな海で泳げることは無いかもしれないと思いながら泳いだ。

船頭の助手が沖で素潜りして大きなハタをモリで一尾突いてきた。その間、アメリカ人の女学生と一緒に船の周りで泳いだ。彼女はメキシコ人の学生一人がしつこくモーションをかけてくるのが嫌だという意味の事を言っていた。彼女はもしかしたら、僕に気があるのかも知れないと想いながらも、残念ながら僕は英語ができないので詳しい話をすることができず、内心とても残念に思った。

島に戻って大きなハタをバーベキューにすることになった。僕が砂浜のヤシの木に登ってココナッツを一つ落とすと、一人の現地人が雑木林の奥から現れて、ココナッツのお金を払えと言われてシラけた。ハタが焼きあがって食べ始めた頃、藪のなかから大量の蚊が襲ってきた。焼いた魚を持って首まで海に漬かってようやく食べることができた。体中蚊に刺されてしまって、ハタの味がほとんど分からなかった。一度にこんなにすごい大量の蚊が出てくるのを初めて見た。

島で最後の晩、メキシコ人の学生達に誘われて砂浜に行って座った。月明かりだけでも海の底が見えるし、星がとてもきれいなロマンチックな夜だった。メキシコ人の学生達は歌がすごく好きだ。アメリカ人にちょっかいをだしていた男子学生はすごく歌がうまく、何曲も続けて歌い出した。その中で気に入ったスペイン語の歌を二つほど彼らから教えてもらった。モレニータ・リンダとシェリト・リンドだ。これらの曲は夜男性が好きな女性の窓辺に行って歌う(セレナータ)有名な曲だそうだ。とても楽しい連中と愉快に最後の島の夜を過ごす事ができた。

11/15 快晴 サンクリストバル・デ・ラスカサス

昨日、偶然にもビジャエルモーサのバスターミナルで日本人の留学生カップルと再会した。彼らは夫婦だった。バスで一緒にサンクリストバル・デ・ラスカサスに着いた。ここではポサーダ・ルピタという小さなホテルに皆で入った。とても清潔な宿で、一人一泊20ペソはとても安かった。ここはユカタン半島と違ってグアテマラに近い山の中の町だ。高地なので肌寒いが、街並みもコロニアル風で情緒があり雰囲気が良くて気に入った。ここの娘の名はルピタと言い宿の名前と同じだ。肌の色は浅黒いが、大きな黒い瞳がとてもかわいらしいく、控えめで好感が持てた。

夜は町のレストランで久しぶりに辛いメキシカンステーキを食べた。コンソメスープが付いて15ペソだった。とても美味かった。メキシコ人はステーキを食べながら、時折小さな緑の唐辛子をつまんでいた。僕も真似したが辛過ぎて無理だった。

翌日、皆でこの町のメルカード(市場)に行ってみた。狭い通りには革のカバンを安く売っている店が多かった。もしも南米で気に入った土産物が見つからなかったら、戻ってきた時にここで買おうかなと思った。留学生カップルとはここでお別れだ。じきに日本へ帰るらしい。感じの良い人達であった。

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