A. 20才の秋、旅に出た。(9/16)南米編 

A.20才の秋、旅に出た。

12/6 曇り、コロンビア入国 

パナマとコロンビアを繋ぐ道路はない。アメリカ大陸を南北に貫くパンアメリカンハイウェイは、パナマとコロンビア間のジャングルにある大湿地帯のダリエン地峡で切れている。建設されない理由は技術的、経済的に難しいという意見と、軍事的な理由で北、又は南から簡単に他国の軍が侵入出来ないようにするためとか言われていた。そうだとしたら、どこの軍隊を想定しているのだろうか。

中南米を旅する旅行者の間では、コロンビア国内を旅行するのは自殺行為だと言われていた。世界屈指の治安の悪い国で泥棒や強盗、殺人が多く、おまけに反政府共産主義のゲリラも出る。もし金があればコロンビアに足を踏み入れずに、パナマから飛行機でエクアドルの首都キトへ飛べと言われている。金の無い旅行者であれば、パナマからコロンビアのメデジンへ飛び、すぐパンアメリカンハイウェイを走る長距離バスを乗り継いで、一路エクアドルを目指して南下しろと言われていた。

中学生の頃に読んだワーゲンバンの旅行記で、世界一周をしたドイツ人と日本人旅行者の話を思い出した。コロンビア旅行中に車が故障して、ヒッチしたトラックの荷台に乗せてもらった時の話だ。山中の急坂の登りで、車速が遅い時、荷台の荷物を奪いに襲ってきた数人の山刀を持った山賊を、運転手から言われて棍棒で叩き落とした話を思い出した。

僕の旅行資金は乏しかった。ケンちゃんやブチさんはアメリカで働いてきたので、世界一周ができる充分な資金を持っていた。彼らに相談すると、コロンビアはやばいので皆で一緒に抜けようと言ってくれた。そこで、メデジンから長距離バスを乗り継いで、一路キトへ南下するルートに決まった。

ちなみに僕の旅行資金は、日本でコーラも飲まずに1年半働いて貯めた90万円だ。その中から羽田、ロスアンゼルス間の格安な往復チケットを買った。帰国時の航空券は一年間有効で18万円だった。行きはパンアメリカン航空、帰りは大韓航空が指定されていた。12万円で服や持ち物など旅装一式を揃え、残りの60万円を1,000ドルの現金と1,000ドルのトラベラーズチェックに換えた。

アメリカ合衆国をバスで1ヶ月間、右回りに一周した時に500ドルを使った。ロスからメキシコへ南下した時は懐に1,500ドルが残っていた。南米まで陸続きにバスで行ける所まで行って、帰りは南米から最短距離で一番安くロスに戻るために、飛行機でコロンビアのメデジンからマイアミ経由でロスまで飛ぶことにした。この飛行機代が300ドルかかる。この分だけは何があっても盗られない様にしないといけなかった。何とかロスに戻ればアンディに預けた日本へ帰れる航空券がある。

パナマからコパ航空の4発のプロペラ機に乗ってメデジンに向かった。機内ではサンドイッチとコーラが出た。僕らはお腹が減っていたので、美人だがツンとしているスチュワーデスを呼んで皆でおかわりをした。あまりいい顔はされなかった。メデジンへは2時間近くかかった。僕にとって生まれてから2回目のフライトだ。

メデジンを上空から見ると、写真で見たスペイン風のような赤い屋根瓦と、レンガでできた建物がとてもエキゾチックだった。赤道に近く海抜1,500mの常春の高地で、深い谷間に位置するメデジンはかなり大きな都会だ。コロンビアでは首都ボゴタに次ぐ第二の都会と言われていた。

飛行機は谷間を大きく旋回して市街地にあるオラジャ・エレーラ国際空港に着いた。入国時、出国用のチケットを見せる必要も無く、簡単に入国審査が終わった。空港のロビーはとても混雑していた。無料でコロンビアコーヒーが飲めるスタンドがあった。良い香りに釣られて行くと、小さな紙のカップで熱いコーヒーを飲ませてもらった。美味しかった。ケンちゃんとジェーンがダウンタウン行きのバスを調べに行った。ブチさんと僕はロビーの壁際に皆の荷物を集め、周囲に監視の目を向けて彼らの戻るのを待っていた。なにしろここはアメリカ大陸で一番ヤバイ国なのだ。

荷物を見張っている間、周囲を見ていると美人の多いことに気がつく、そうだコロンビアは貧乏旅行者の間で美人の産地として有名だ。中南米の美人の産地は3Cと言われている。国名のイニシャルを取って、北からコスタリカ、コロンビア、チリの3Cだ。中米の5カ国の中でもコスタリカだけは白人系が多いからかも知れないが、たいして美人が多いとは思えなかった。

コロンビアも白人系が多いが、健康的に日焼けした明るい小麦色した肌をもつ、愛嬌のある混血美人が多い。ちなみにブスの3Pとか言われている国もある。誰がつけたのか知らないが、北からパナマ、ペルーにパラグアイの三カ国だそうだ。美人の3Cにブスの3P、中南米を旅している者達は、皆、この意見に対して当然のようにうなずく。

僕らの目の前を、ミニスカートを履いた女の子達4人ほどが、僕らを見ながら通り過ぎていった。東洋人が珍しいのだろう。しかし、皆ハッとするほどの美人で、スタイルも抜群だ。あまりにも美人だったので荷物の事も忘れて、ついつい見とれてしまった。その中の一人の女の子が僕に向かってウインクした。僕の胸は周りの人に聞こえるくらい、ドキッと大きな音を立てた。そこへちょうどケンちゃんが戻ってきて、皆でダウンタウン行きのバスに乗り込んだ。バスの中は混んでいたので、僕とブチさんは後ろのドアからバスに乗り込んだ。つり輪をつかんで周囲を見渡すと、なんと目の前にさっき空港で見とれた女の子たちが座っていた。この偶然に驚いた。

その時、エルサルバドルのジャングル列車の中でケンちゃんから教わった、とっておきのスペイン語のフレーズが口から出た。僕が知っているスペイン語で一番長いフレーズだ。それも初めて使う。ケンちゃんの様にニッコリと微笑みながら、「セニョリータ、キエレス、イール、アルシネ、コンミーゴ、エスタノーチェ?」。一気に言い終わると同時に、彼女から返事をもらえた。でも、何を言われているのか全然わからない。 

隣に居たブチさんは、英語はうまいがスペイン語は苦手だ。僕は彼女に「お嬢さん、今晩、僕と一緒に映画へ行きませんか?」と、聞いたのだ。バスの前方に乗っているケンちゃんに向かって、どうしたら良いのか大声で聞いた。彼は「電話、テレフォノ、番号を聞け」と言ってきた。ブチさんがノートとボールペンを彼女に渡すと、名前と住所と電話番号を書いてくれた。ちょうどその時、ケンちゃんに「ここだ、ここだ、バスを降りるよ・・」と声を掛けられた。ここで別かれるのはとても残念な気がした。後ろ髪をひかれるとはこういうことか。

ケンちゃんが、日野さんから教わった安宿の住所が書かれたノートを手に持ちながら、活気のある雑踏の中で、何人かの人に尋ねながら歩いた。後ろからボディガードのように周囲に目を配りながら僕は彼に続いた。大通りから2ブロックほど入ったところで、モン・アモールという名の、見るからにいかがわしい宿に辿り着いた。一階が小さなバーになっており、ホテルの受付はバーの脇の階段で上がった二階にあった。

この辺りは安っぽいケバケバしいバーや小さな店がぎっしりと並び、人通りが多くてとても騒々しいところだ。昼間から下のバーはやかましい音楽を鳴らしている。さすがにほとんど客はいないと思ったが、ビールを飲んでいる連中が居た。なにか混沌としたヤバそうなパワーが漲っているところだ。

ホテルの外へ出た時はかなり警戒して歩いたが、一週間、この街の中心街を歩いているうちに行動が大胆になってきた。いつの間にか到着時に持っていた強い警戒心も無くなってしまった。歩行者天国で知り合った露天商の連中や、いつも朝ご飯を食べるカフェテリアのオネエちゃん達とか、彼らとのやりとりが結構面白い。

ここの人達はすごく好奇心が強くて東洋人が珍しいことから、どこかに立ち止まっているだけで誰彼となく話かけてくる。真面目に彼らの相手をすれば、すぐ僕らの周りに人垣ができてしまうほどだ。なんかスターになった気分がした。だが、通りを歩いていると、時折すごく馬鹿にしたような言い方でチノ(中国人)と呼ばれるときがある。

この言い方にはとても頭にくる。そんな時は、「バカヤロー、チノじゃない、ハポネスだ。」と怒って言い返す。一度、皆で通りを歩いていると、12才くらいの男の子と母親が僕らの顔をマジマジと見ながらすれ違った。そして子供だけワザワザ戻ってきて、僕らの顔を見ながらチノと蔑んだ言い方をしたとたん、「ガキ、誰がチノだ。」と言って、ケンちゃんがその子供を蹴飛ばした。母親は黙ってしまい、何も言ってこなかった。

このほかにも、バーが多い通りの歩道を歩いていると、僕らの前にミニスカートを履き、派手に化粧した年増のオバさんが飛び出してきた。白昼だというのに腰を振って踊りながら「チニート、おいで、おいで」と、からかわれたことがある。この時はあまりにも可笑しくて、怒ることもならず皆で大笑いした。どちらにしてもチノと蔑む言い方をするヤツラは教養の無い連中が多い。それにしても、中南米ではどこへ行っても中国人がとても馬鹿にされている。一説によると、パナマ運河の工事に、大量の中国人が奴隷同然に働かされていたからだというが、真偽の程は定かではない。

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