A. 20才の秋、旅に出た。(10/16)メデジン長期滞在記

A.20才の秋、旅に出た。

スペイン語入門

以前、ケンちゃんが、どこか南米で気に入った街が見つかったら、一月ほど滞在する方が面白いという事を言っていた。彼はメキシコのグアダラハラが気に入って、一月ほど滞在してスペイン語を習った経験がある。僕にとってその街がここだと思った。もっとここに居たいという気持ちが強くなり、また、現地の人達ともっと話がしたいと思うようになった。そこで僕はここで本格的にスペイン語を習うことにした。

一人で残るつもりでいたが、彼らに相談すると、ケンちゃんもブチさんもジェーンまでが、皆で一緒にスペイン語を習おうと言い出した。たまたま大通りを歩いていたときに英語教室を見つけた。アメリカ人の先生がオーナーで、年末休みの1ヶ月間だけスペイン語を教えてくれる事になった。毎朝、2時間程度の授業を受けて、一人当たり1ヶ月400ペソだ。1ドルが34ペソ程度なのでとても割安だ。この教室の管理人のおばさんは二人の娘と一緒に住み込んでいる。長女が20才くらいのなかなかの美人だ。だからスペイン語をしゃべりたいのだ。動機はいたって単純だ。

この頃、ケンちゃんとジェーンは他のホテルに移動することになった。僕はブチさんとホテルモンアモールのツイン部屋を一緒に借りることにした。ブチさんはまだジェーンに未練があるように見えた。だからジェーンも他のホテルへ行きたかったのであろう。彼女は僕の好きなタイプではない。年はケンちゃんくらいか、少し上かもしれない。僕には白人のヒッピーみたいなバアさんに見える。ちなみにケンちゃんは僕よりも8才年上だが、実年齢よりもっと若かく見える。僕も最初に会ったときは、24才くらいかと思っていた。

ブチさんはヨーロッパ中をヒッチハイクしながら歩き、アメリカでバイトして旅行資金を稼いで来た人だ。アメリカで旅行中のジェーンと知り合ったらしい。彼の年は分からないが30才くらいだろう。日本人旅行者の間ではもう若くはない。流石に20才の僕が、出会う日本人の貧乏旅行者の中で一番若い。年を言うと皆一様に驚く。平均的な日本人の貧乏旅行者の年齢は25才くらいだろうか。

ある日、同じ宿のコロンビア人の客が、夜の路上で3人組みの強盗に襲われた。腕時計を盗られただけでなく、肩にナイフで傷を負わされた。包帯で腕を吊っており、かなり痛々しかった。彼を見ながら、こういう目に合わないようになるべく気をつけて行動するよう、自分に言い聞かせた。

後日、街に出て製造販売をしている家具屋を見つけた。そこの工房で護身用のヌンチャクを作ってもらった。ブルース・リー主演の映画「燃えよ!ドラゴン」で、一躍世界中で有名になったヤツだ。沖縄空手や、琉球古武道で使用する木製の武器だ。ヌンチャクの絵とサイズを紙に書き、細かいところは自分で仕上げた。材料は、硬くて重い大型ハンマーの木製の柄を使用することにした。持ち運びし易いように少し小型にして八角ではなく丸棒にした。

出来上がったヌンチャクをブルース・リーよろしく体の周りでブンブン振り回すと、職人達からヤンヤの歓声があがった。この日から外出するときはいつも、例のニューヨークで買った小さなアーミー・ザックに入れて持ち歩いた。そうそう、このお気に入りのザックはアメリカ製だと思っていたのだが、日本製だった。ちょっとがっかりしたが、サイズもデザインも使いやすくて気に入っている。

この頃、4日間酷い目にあった。ある朝起きた時、唇が痒くなって腫れ上がってしまった。かゆみ止めクリームを塗ったが、翌朝もっとひどくなった。とうとう目の周りも腫れだしてすごい顔になった。ホテルのオーナーから聞いた病院へ行った。診断してくれた医者の話では、原因は何かのアレルギーか、ビールスかも知れないと言っていたが、自分に心当たりはまったくない。医者が腫れてヒビ割れた唇をアルコール消毒し、ドイツ製のクリームを塗ってくれた。このクリームが効いたらしく3日ほどして完治した。原因が分からないのでこのクリームは捨てないで持っていることにした。

12/25 曇り 隣町エンビガード

メデジンに長期滞在をするようになってからクリスマスまでに、色々な事が起った。ある日の晩、ジェーンがダウンタウンからバスで20分くらい行った隣町(エンビガード)に、良い感じのディスコがあるから皆で行こうと言ってきた。彼女の話はいつもアテにならないので行く気がしなかった。だが、先だって合流した池さんや、ブチさんも行こうと言い出したので、結局は僕もつき合う事にした。

池さんは一人でボゴタからメデジンにやって来た。偶然にも市内の通りで、僕らとバッタリ出会った。今は同じ安宿に泊まっている30才。日本からヨーロッパへ行き、ニューヨークでバイトしてから南へ下がってきた人だ。顔を合わせればいつも「つまらない所だ、何かないか?」と言うのが口癖で、飯と酒と女しか興味が無いみたいだ。

彼の話では、先だってバーの姉ちゃんのところへ上がりこんでいたら、急に抱きつかれて顔中にキスをされたそうだ。店を出てから、上着に入れといた財布が無くなっているのに気がついた。が、後の祭り。「きっと抱きつかれてキスされていた時、彼女の相棒か誰かに盗まれたのだ」と、すごく怒った顔で言っていた。また、皆で昼飯を食べていると、「お前の肉のほうが俺のよりもデカイ、何故なんだ?」と真剣に抗議された事がある。僕に抗議されてもどうしようもない。飯と酒と女にはとても真剣な人だ。

歩行者天国で知り合いになった、露天商のアラミンも誘ってエンビガード行きのバスに乗った。ところがジェーンがバスを間違えてしまった。また気づくのが遅れたことから、街の灯りも見えない小さなガソリンスタンドで降りる羽目になった。近くに一軒だけ家があり、次のバスを待っているうちにブチさんがコーラを探しに行ったままなかなか戻らない。

ケンちゃんと僕が、ブチさんを探しにその一軒家に行ってみると、中は農家らしい雰囲気でブチさんが家の人達と話に夢中になっていた。僕らが行くと家中の人が出迎えてくれて、地酒のアグアルディエンテ(焼酎)をご馳走してくれた。うまい一杯だった。オヤジさんの名前は確かゴメス某だった。いままで旅行してきたところでは、このようなハプニングは起きなかった。実にコロンビアは面白いところだ。

ほどなくしてバスが来て、ジェーンが言っていた目的の場所へ着いた。残念ながら皆が期待していたほどの場所ではなかった。安っぽいケバケバしいディスコのようなバーで、一杯のクーバ・リブレ(自由キューバという名の、コカコーラにラム酒を入れたカクテル)を飲んで帰ってきた。本当にシラけたディスコだった。一緒に来たアラミンは、歩行者天国で針金細工を売っているヒッピーのような娘だ。人から好かれる顔をした娘だったが、あまり感情を外に出さない。何を考えているのか素性が分からない不思議な娘だ。

目が見えない、即入院

後日、メデジン郊外にあるピエドラ・デ・ペニョールと呼ばれている巨岩を見に行った。オーストラリアにあるエアーズロックの次に大きく、世界で二番目に大きい岩だと言われている。バスで片道3時間ほどかかる、かなりの田舎であった。岩の周りはダムにするとかで、パワーショベルとダンプが沢山入っていた。池さんは「飯はうまくないし、アラミンも来なかったのでつまらない・・」と言って、もう岩が見えている丘の麓から一人で他のバスに乗って帰ってしまった。せっかくここまで来たのに、ある意味すごい人だ。

岩はかなりデカイが横に大きいのではなく、コブシのような形で丘の上に立っていた。岩の天然の割れ目に沿ってコンクリートの螺旋階段が付いていた。岩の高さは200m近くあるそうだ。ここは国立公園でもなんでもなく私有地だそうで、オーナーが階段の上り口で入場料をとっていた。頂上から見えた周りの景色は絶景だ。ここまで来た甲斐があった。池さん、残念だったね。

                    岩山の頂上にて

その晩、宿の下のバーで酒を飲んだ。翌日、目が覚めると体中が痛く、頭もひどく痛かった。二日酔いか、ひどい風邪を引いたのかと思った。それでもフラフラしながらスペイン語教室へ行った。しかし、我慢しきれずにクラスを抜けてホールのベンチで横になった。段々と体調が酷くなり寒気もしてきた。

授業が終わるのを待って、ブチさんと一緒にホテルへ歩いて戻るが、足元がフラフラした。途中、吐き気がしてきて道路脇にしゃがみこんでしまった。地面を見ていると、そのうち目の前が白んできて、霧がかかったように真っ白になってきた。顔を上げると景色が下から消えて行き、ついに何も見えなくなってしまった。

そばに居たブチさんに目を大きく開けながら、「目が見えない。」と言うと、ブチさんが驚いて通りかかったタクシーを止め、僕を車の中に押し込んだ。唇が腫れたときにお世話になった病院の名前を運転手に告げた。「クリニカ・サグラーダ・コラソン」、精神ではない、聖心クリニック。

病院に着くと即、その場から入院することになった。少し時間が経つと目は見えるようになったが、ベットに寝ていると悪寒がして体中の節々が痛く、おまけに酷い下痢になった。寒くて、寒くて歯の先があたってガチガチと音を立てた。なんの病気だろうか、こんなことは初めてだ。とても不安になった。それから丸4日間、点滴と抗生物質を打ち続けられた。そのせいで両腕の皮膚が硬くなり、注射針が入らなくなってきた。とうとう手の甲の血管に点滴用の針を入れる始末だ。痛かった。

見舞客

入院中、ブチさんは病室に泊まりこみ、僕の付き添いをしてくれた。汚れたパンツまで洗濯してもらうほど、とても世話になった。彼が居てくれて本当に助かった。ここの看護婦さん達も皆親切にしてくれた。日本人が珍しいのだろうか、他の病棟の看護婦さんや、色々な人達が見舞いにきてくれた。時にはブチさんが路上で知り合った、いかがわしいカップルまで見舞いに来た。流石にヤバそうだった。

そんな中でも、ブチさんが病院のカフェテリアで知り合い、見舞いに来てくれた女性が印象的だった。とても明るい性格で、大学に通っており、将来は弁護士になるそうだ。22−3才くらいか、僕よりも年上のことは確かなようだ。小麦色の肌に、黒くてクリクリした目がピカピカひかり、時折本当に楽しそうに、口を大きく開いて笑う。スペイン語が通じなくても彼女が顔を見せるだけでその場が明るくなり、僕は病気を忘れてとても楽しい気分になった。彼女の名前はフラッカといい、オヤジさんが中庭を挟んだ向かい側の二階に入院していて、毎日見舞いに来ているそうだ。

翌日も彼女が見舞いに来てくれた。もう大学は来年まで休みに入ったそうだ。彼女について来た姪と一緒の写真をとってあげた。現像したら写真を送る約束をして、日記帳に住所と電話番号を書いてもらった。体調が良く気分も良いときは、彼女に向かってメキシコ人から習った歌を歌えるほど元気になった。しかし、熱が出るとベッドで体をエビのように丸め、ガタガタ振るえだした。これを我慢すると、一気に汗が吹き出てきて体中がビショビショになり、同時に熱が下がってくると気分がよくなる。この繰り返しだ。マラリアかも知れないと思った。

熱が出るときはとても辛くて故郷の神様に必死に祈る。遠すぎて助けてもらえないかも知れないと思い、病室の壁にかかっている十字架だけでなく、仏様、アラーの神、世界中の神様に助けを乞う。担当の医者に病名を聞いてみるが、スペイン語の説明を聞いても分からない。すると医者は僕の辞書を引いて病名を教えてくれた。

腸チフスだった。日本だったら法定伝染病として隔離されている。本当に驚いた。「でも何故僕だけ?どこでかかったのだろう?」。そうだ、巨岩を見に行って農家のような所で昼飯を食べた時、僕だけがコップ一杯のミルクを飲んだのだ。ミルクは生であったのかも知れない。4日間の個室での入院費、完全看護、治療費すべての合計が100ドルだった。日本で加入した旅行保険は使えなかったが、手持ちの金で支払うことができたのでホッとした。

退院した後も、毎日一週間通院して抗生物質を注射しなければいけなかった。体力が落ちていたので、病院に近いスペイン語教室の空いている部屋に好意で二泊させてもらう。管理人のおばさん一家に世話になった。彼女の二人の娘は成人しているとばっかり思っていたが、なんと金髪の長女シリアは17才で、黒髪の妹のマルガリータはたったの15才だと知って驚いた。こっちのガキは本当にませている。

クリスマス前後

退院してから一週間ほどたってようやく病気が全快した。そして体力が回復した頃、フラッカの家へ招かれた。年末だったので彼女の家には近所の友人や、隣人が沢山来ていて皆に紹介された。アグアルディエンテを飲み、歌い、大いに踊った。夕飯をごちそうになり、夜遅くなったので向かいのホルヘの家にブチさんと一緒に泊めてもらった。

フラッカの家は小さくても小奇麗にしていた。老夫婦と彼女の三人で住んでいた。彼女の家の前に姉さん一家が住んでいた。貧しそうに見えても結構お金があるのだろう、オヤジさんが心臓の病気で僕と同じ私立病院の個室へ入院していた。

翌日、23日に彼女に電話して、中心街にあるボリバル公園で会った。日本から持ってきた蝶々の柄の紙入れをプレゼントした。お返しに何かをプレゼントしてあげると言われ嬉しかった。けれど学生の彼女にお金を使わせたくなかったので、メデジンの絵葉書一枚と小さな櫛を買ってもらった。彼女と喫茶店で話をしたがとても面白かった。明日のクリスマスは、カリ市に住む長男の家で過ごす予定だそうだ。少し残念な気持ちになった。

24日、クリスマスイブの晩、モン・アモールのオーナーの息子ギジェルモから誘われて、皆で彼の家に行った。アグアルディエンテを大瓶で買って持っていったが、はしゃいで飲んだのは僕ら日本人だけだった。食事が無く飲むだけだったので、三人ともすぐに酔っ払ってしまった。

ギジェルモは兄弟が多く、また近所のガキどもで家の中はごった返し、すごいパーティーだった。外に出てみると沢山の小型の熱気球が上がり、提灯みたいな灯りが夜空一面に広がっていた。この夜ブチさんはとても酔って道路で吐いてしまった。彼がこんなに酔ったのを初めて見た。帰りは深夜1時頃になってしまい、ようやくタクシーを捕まえて中心街のホテルまで無事に帰れた。さすがに踊りすぎたので、翌朝、起きると足腰がとても痛かった。

12/26 晴れのち大雨、初デート

午後、フラッカに電話して一緒に映画ティブロン(JAWS)を見ることにした。しかし、映画館の前はすごい人の列で、3時の上映時間に入ることができなかった。他の映画館に行くが4時からなので、セントロを散歩したり喫茶店へ入ったりした。今日も彼女がおごってくれた。僕は映画の入場料を払った。映画の後で近くを散歩し、また喫茶店に入って色々なことを話した。

一緒にいるだけで楽しくなる。僕が結婚したい女性はこういう人だと思った。やせっぽちで決して美人とは言えないけれど、彼女のキリッとした顔立ちも好きだし、性格が明るい心のとてもやさしい人だ。翌日も一緒に映画へ行った。この晩、帰りがけに初めてのキスをした。

ジェーンはとうとうメデジンで資金がついてしまい、ケンちゃんと別れを惜しんでいた。泣く泣くメデジンから飛行機でマイアミへ行ってしまった。一時、ケンちゃんは彼女を世界一周旅行に連れて行こうと、真剣に思ったらしい。相談を受けたブチさんも僕も、「もっと良い女が見つかるよ」と言って反対した。彼らは色々と話し合ったあげく、最終的に別れることに決めたようだ。ケンちゃんは何も言わなかったが、飛行機代は彼が払ってあげたようだ。

12/29日 メデジンから南下

フラッカとの別れ際、僕が行く先々の街から絵葉書を送るように頼まれた。必ずまたここに戻って来るし、絵葉書も送ることを約束して、コロンビア第三の都会であるカリ行きの長距離夜行バスに乗った。車内は満席であった。疲れていたのか隣の女性の肩に頭を乗せて熟睡してしまった。

翌朝、常夏のカリのバスターミナルに着いた。ターミナルの軽食堂で朝食を食べ、ウェイターのお姉さんとカタコトのスペイン語で会話した。夕方、お姉さんの仕事が終わる頃、親切にもカリ市内を案内してもらえることになった。夕方になって皆で外出し、ウェイターのお姉さんに市内を案内してもらったが、久々の車中泊で皆疲れたせいか、お礼にカフェでアイスクリームをご馳走して早々に別れた。久々に旅が再開されると旅に夢中になり、僕の頭の中にはすでにフラッカは居なかった。

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