A. 20才の秋、旅に出た。(11/16) 1976年 元旦

A.20才の秋、旅に出た。

エクアドル入国

大晦日に夜行バスでカリからポパヤンへ向かった。ポパヤンには深夜に着き、安いシャンパンと25ペソのステーキで新年を祝った。初日の出はポパヤンから国境へ行くバスの中で迎えた。

コロンビアとエクアドルの国境はノンビリしていた。コロンビアで出国手続きをしてエクアドル側で入国手続きをしようとすると、国境の職員がいなかった。そばにいた警察官に聞くと、祭日なので入国手続きは隣町の入国管理事務所で行えと言われた。ちょうどそこへ空の回送中のバスが通ったので、事情を説明したらタダで乗せてもらえた。

その町で入国手続きも無事に終わり、午後3時発のキト行きの直行バスに乗る。キトまで7時間かかり少々疲れた。流石に夜も10時を過ぎると人通りが少なく、薄暗くてとても寒い通りを周囲に注意しながら歩くが、目指すホテルはすぐに見つかった。

1/10 土 キト泊

以下、ペルーに入ってからキト滞在時について書くことにする。キト市内の由緒あるカトリック教会を見学した。エクアドルはインディオ系の住民が多く、コロンビアよりも貧しく感じられた。それでも教会の中の壁、天井の装飾、すべてが金ピカで荘厳だ。日本のお寺の雰囲気とあまり変わらない印象を受けた。

中南米にスペインの侵略者が持ち込んだカトリックに対して、僕はあまり良い印象を持っていなかったので、帽子も取らずに写真を撮っていた。そうしたら近くでお祈りしていたインディオのおばちゃんに嗜められた。「ゴメンなさい」。知らないうちにとても不遜な態度をとっていたようだ。彼女の言葉に、そんな自分が恥ずかしくなって帽子を脱いだ。

キトにはニ泊しかしなかったが、旧市街を歩いているときにキトの絵葉書を見つけた。そうだ、すっかり忘れていたが、フラッカに別れの挨拶をした時、僕が行く先々から絵葉書を送ると彼女に約束した事を思い出した。ケンちゃんに教わりながら、「僕は今キトにいます。元気です。君も元気ですか?」など数行の簡単な文章をスペイン語で書いて投函した。

ペルー入国

キトから早々に南のペルーとの国境へバスで向かった。ペルーは外貨の持ち込みがうるさく、入国時に申告しなければいけない。時には厳しい検査を受けると聞いた。

ドルを国内で換金したときは、銀行の発行する換金証明書を保管しておかなければならない。出国時にはドル残金が確認され、換金証明書と照らし合わせられる。もし金額が合わないときは罰金を取られるらしい。でも僕らが出国するのは首都リマの空港ではなく、内陸のボリビアとの小さな村の国境だから問題無い。この貧乏旅行者間の情報を信じることにした。

さっそく国境に着くと換金業者が何人か声をかけてきた。もちろん闇交換屋だ。公定レートでは1ドルが45ソーレスだが、闇レートだと1ドルは63ソーレスだった。闇は随分得をするが違法だ。領収書など無く、偽札を掴まされる恐れもあったが、僕は100ドルだけ交換した。しかし、ペルーに入国する前、エクアドル側で交換したので違法にはならないはずだ。

入国後も闇で換金するためドル現金の一部をパンツの中へ隠して入国した。ゴワゴワして気持ちが悪かったが、幸いうまく行った。税関で見せた数枚の100ドル札の中から、一枚だけ役人が抜き取った。そして、いきなり目の前でクシャクシャに握りつぶした。すかさず抗議しようとすると、役人は手で僕を制し、丸まったドル札をポンと目の前の机の上に置いた。そして「これは本物だ」と言った。

彼の説明ではニセドルがかなり出回っているので、時々チェックするらしい。丸まったドルが自然にフワーッと少しだけ開いてくれば本物で、偽札は丸まったままになると言う。また、ドル札の緑の印刷は白い紙に擦りつけると、緑色が白い紙にうつるのが本物で、ニセ札は色が落ちないそうだ。彼は僕のドル札でやって見せてくれた。「なるほど、本当だ。」僕はてっきり彼に盗まれるのではないかと疑ったのだ。

あいにくと、その日のうちにリマまで行くバスがなく国境の町トゥンベスに一泊し、久々に海岸へ泳ぎに行った。帰りにマンゴーを積んでいたトラックの後ろに乗せて貰い、黄色く熟れて甘い香りのする大きなマンゴーをひとつもらった。そのままかぶりつくと、すごく甘くておいしい。口の周りがベタベタになる。それから一時間くらいすると、なんだか口の周りが痒くなってきた。

ホテルの部屋に戻り、鏡で見ると少し赤い発疹ができていた。そうだ、コロンビアでも路上で売っていた緑の固くて小さなマンゴーを食べたことがあった。あの時、唇が腫れて酷い目にあったのはマ○コ、いやマンゴーにカブレタのだ。

そういえば医者がアレルギーかも知れないと言っていたのを思い出した。大事にとっておいたあの時のドイツ製のクリームを口の周りに擦り込んだ。すぐに効果が現れて、口の周りの痒みがおさまって来たので安心した。なるほどマンゴーは漆科の植物だそうだ。たとえ美味しくても二度とマンゴーに手を出すことはやめにした。

リマには月曜の夕方に着き、日本人旅行者の間で有名なペンション西海に入った。確かに安いが期待していたほど日本食は美味しくなかった。特に現地米がポロポロなので美味しくなかった。部屋も薄いベニア板で仕切られてあるだけだ。でも宿泊客はとても面白い連中が集まって居たので、なにもしないままに5日間も入り浸たってしまった。

気のあった日本人7人ほどで夕食後、リマの港街カジャオへ行くことにした。古い大型のアメ車タクシーに、全員が強引に乗せてもらった。カジャオには世界残酷物語という、有名なイタリアのドキュメンタリー映画に出た世界最大の娼館がある。そこへ皆で見学に行こうということになった。

娼館は街外れに建っていた。外観は日本の地方の木造小学校に似ていた。大きな正門の前に立つと何か懐かしさを感じた。建物は2階建てで、三棟が後ろ側で繋がっている構造だ。英字のEというか、デジタル数字の3の形状をしていた。建物への入場は無料である。赤電球が所々に灯いているが、とても薄暗い廊下に多くの男達がゆっくりと歩いていた。

目が慣れてくると、廊下の片側が全て部屋になっており、ドアが並んでいた。どこにも女っ気がないので不思議がっていると、閉まっているドアと少しだけ開いているドアがあるのが見えてきた。仲間の一人が中を覗こうとして、少し開いているドアを開けると、暗い部屋の中に小さな赤電球に照らされた女の顔がチラリと見えた。歌舞伎のような化粧をしたとんでもない顔に全員が息を呑んだ。一人が化物屋敷かと言ったので、皆笑ってしまったが、本当に驚いた。さすが南米の3Pの国の一つだけあると納得した。その夜は、皆でビールも飲まずに早々にペンションに戻った。

翌日、早く起きてリマ7時半発の列車に乗る。南半球の季節は夏であるが、世界一の高地を走る列車だそうで、アンデスの山々は雪が積もっていた。各列車には小型の酸素ボンベが備え付けてあった。高山病で体調を悪くする人が多いそうだ。こっちはトイレ内の異臭で頭がクラクラした。とても不潔で、揺れる列車内で足の踏み場が無いほど、便器の周りに用を足してあった。おまけに手をつく隙間もないほど、壁も汚物で汚れていた。

車窓の外はチラチラと雪が降ってきた。どうりで寒いわけだ。ワンカイヨに到着すると、外は寒いが緑が多くてなかなか良い雰囲気の町だ。バスターミナルへ行くと、クスコ行きのバスは火曜にしかなかったので二泊した。火曜日になってバスのターミナルへ行くと、バスが一便欠便になったとかで、夕方に出る車内はとても混んでいた。車内はほとんどが地元のインディオの人達だ。数人のヨーロッパ人の旅行者も見受けられた。

日本の満員電車のようにギュウギュウに混んでいて、まともに立つ事もできないくらいだ。これに乗って行かないと次はいつバスが来るか分からない状況だった。朝まで手すりに掴まり立ったままで行く、もちろん床に座ることも寝ることもできない。拷問とほとんどかわらない。早く夜が明かないかと呪文のように口の中で繰り返した。とても辛かった。そんな時、すっかり忘れていたフラッカのやさしい顔を思い出した。楽しかった彼女とのデート。メデジンで過ごした日々、色々な事が思い出された。クスコに着いたらまた彼女に絵葉書を出すことにする。

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