1/22 木 クスコ-マチュピチュ
クスコのホテルボリバルには数人の日本人旅行者が泊まっていた。そのうちの一人A氏と親しくなり、彼の登山の経験談を聞くことができた。彼は登山家の卵?で、世界中の高山の登頂を目指しており、ペルーの高山に登って来たばかりだという。今回はアルゼンチンのアコンカグア(約、6900m)も登頂する予定だそうだ。話が面白く聞いてて飽きない。昼になったので彼の部屋でキャンプ用のバーナーと、コッヘルで作ったインスタントラーメンをご馳走になった。久々のラーメンがとても美味しかった。
夜、小腹が空いたので、夜食を探しに数人の日本人と深夜のプラサ・デ・アルマスに行ってみた。とても寒い夜なのに数人の旅人風の連中が歩いていた。広場に着くと、教会の前から単調な音楽が聞こえてきた。数人のヨーロッパ人のヒッピーが一人の痩せたインディオのオヤジさんを取り囲んでいた。その場に僕らも一緒に佇んだ。オヤジさんは腰に結んだブリキの一斗缶を右手で叩きながら、左手でサンポ―ニャを吹いていた。薄暗く深閑とした広場で、アンデスのフォルクローレが物悲しくも、殷殷と静寂な空間に響き渡った。その場の雰囲気に鳥肌がたった。この情景を忘れることは決してないと思った。
翌朝、7人の日本人が集まり、南米一番のハイライトと呼ばれるインカのマチュピチュ遺跡へ行くことになった。クスコから観光列車に乗ってマチュピチュの手前の駅、アグアス・カリエンテス(温泉)の安宿で一泊した。部落みたいな駅だが山中に温泉があると言う。その晩、雨中泥んこになりながら山の中にある温泉へ行った。
着いたところはコンクリートで出来た小さなプールだった。すでに数人の先客がいたが、皆、水着を着ていた。僕らの頭の中は、日本的な露天風呂をイメージしていたので、だれも水着など持ってこなかった。意を決してプールの脇に建っていたバラックの中で裸になり、タオル地の小さな手ぬぐいで前を覆い、裸電球が点いた薄暗いプールの中へ入った。情緒も何もあったものじゃない。目が慣れてくると、先客は合計10人ほどいて、半分がペルー人、半分はチリ人の観光客達であった。女性客も4人ほどいた。
温泉で体が温まってくると、来る途中の冷たいせせらぎに沈めてきたビールを、誰が取って来るかジャンケンで決めた。僕と元自衛隊員の体の大きい岩さんが負けて、取りに行くことになった。僕達はプールの中で頭にのせていた小さなタオルの手ぬぐいを腰にしばり、電灯の灯りがあまり届かなくて薄暗くなっているプールの隅から後ろ向きに上がった。
僕は冷えたビールを3本提げて戻ってきて、足からジャボンとプールに飛び込んだ。岩さんが左右の手にビールを2本ずつ提げて、僕の後からプールに戻ってきた。プールの縁2mほど前に来たとき、皆が見ている前で岩さんのタオルの結び目が解けた。一瞬、岩さんは大きな体をひねり、前かがみしながら片膝を上げてタオルを挟んで前を隠した。そしてタオルを膝で挟んだまま片足でピョンピョンと跳ねてプールに飛び込んだ。その格好がすごく滑稽で、一同涙を流しながら大笑いした。
翌朝、終点のマチュピチュの駅まで線路上を歩いて行った。駅の周辺で土地のインディオのオバちゃん達がやっている土産物屋をひやかしていると、スウェードの焦げ茶色した洒落た帽子を見つけた。かなり物がよい。帽子売りのオバちゃんと交渉し、日本で買ってきた小さな折り畳みの傘と交換してもらった。これからこの帽子をいつも被って旅をすることにした。
マチュピチュで傘と交換した帽子を被る
マチュピチュ遺跡は山上にある。観光客は麓の駅からマイクロ観光バスでジグザグになっている未舗装の道路を上がる。そのジグザグの道路を見上げると、山の斜面を人が通れる小さな路が上まで真っ直ぐついているのが見えた。誰かが、この路は昔のインカロードではないかと言い出した。
この路を登ればマチュピチュの遺跡に金を払わずに直接入れるかも知れない。皆そう思った。そして一生懸命になって小さな路をよじ登った。一時間後、登りきったところが遺跡の入口の手前だった。唖然とした。僕達は肩で息をしながら、とても可笑しくなって笑い出した。
遺跡への入場料は一人80ソーレスだ。学割だと20ソーレスで入れると言う。皆、イタズラする気分となり、学生ということで学割専用の窓口に列を作った。一人ずつ車の免許証やそれらしい許可証を見せて学割にしてもらった。僕もケンちゃんが持っていたアメリカの拳銃許可証を見せて学割になった。顔写真にはもちろんケンちゃんが写っている。
最後に本当の大学生の真面目な佐藤君が日本で作った国際学生証を提示した。だけど学割にならなかった。受付の人にこれは学生証では無いと言われた。佐藤君が何度説明しても聞いてもらえなかった。佐藤君だけ一般客の80ソーレスを払わされた。皆、笑い出したが彼がかわいそうになり、少しずつ金を出し合って彼に補填した。
遺跡はすごい場所に在った。さすがに南米一のハイライトスポットだ。天空の都市と言われるほど険しい山の頂に、インカ時代の都市の跡が残っている。日時計だったと言われている?岩の上に座った。朝、まだ早いので観光列車は到着していない。僕ら7人しか来ていない。空気は乾燥して冷たいが、今日は良く晴れたので清清しくて気持ちが良い。明るい日差しの中、上半身裸になって陽に当たり、人影の無い静かな遺跡を眺めながら物思いに耽った。とても贅沢なひと時を過ごすことができた。
昼近くになり沢山の観光客が列車でクスコからやってきた。ちょうどよい潮時だ。僕らは逆に宿に戻ることにした。駅まで下りはバスで戻ることにした。ジグザグになっている坂道を降りていくバスに向かって、地元の子供達が手を振った。午前中に来てクスコへ戻る観光客達も手を振る。バスが次のコーナーを曲がると、また同じ子供達がバスに向かって手を振るので、バスの観光客は皆驚いた。
今朝、僕らが息を切らせて登った斜面を、子供達はバスが通るとすぐにすごい勢いで滑って降り、バスの先回りをしていた。こんなことを数回繰り返してバスが駅につくと、観光客が喜んで追いついてきた子供達に小銭をあげていた。誰だ。インカロードだなんて言ったのは、僕らはこの光景をみて笑い出した。
帰りがけに帽子をもらった売店のオバちゃんへ、日本から持ってきたソニーの小型ラジオも売ることができた。山奥でも短波放送で音楽が聴けるラジオは希少で、オバちゃんに気に入ってもらえた。これで乏しくなってきた旅行資金の足しになった。
翌朝、クスコに帰る支度を部屋でしていたところ、一人のペルー人のオバサンのポンチョが盗まれたとかで僕らが疑われた。オーナーとオバサンが部屋に来たとき、あまりしつこいのでブチさんが怒ってオバサンの肩を押してしまい喧嘩になった。興奮して出て行ったオバサンが一人の警察官を連れて来て、「こいつに殴られた」とブチさんを訴えた。ブチさんが暴力を振るったとして、留置場へ入れられてしまった。
全員が青くなった。警察署で殴ったことなど無い、逆に濡れ衣を着せられたと何度も事情を説明した。署長も興奮しているので、こっちの言い分を聞いてもらえなかった。しばらくしてリマの日本大使館へ電話しようかと話しあっていたところ、ようやく署長も事情が飲み込めたらしく、オバサンが始発列車に乗った後で釈放すると言った。その際、釈放料?としてタイプ用紙30枚を買ってくるだけで済んだ。無事にブチさんが釈放されて皆本当にホッとしたせいか、誰も冗談を言わなかった。
クスコを発つ前に日系人が経営していたカメラ屋で、一緒にマチュピチュへ行った渋谷さんが日本から5万円で買ってきた中古のニコンを285ドルで売った。僕も旅行資金の足しに、日本で買って来たキャノンのコンパクトカメラを100ドルで売った。渋谷さんは南米を旅行したあとでロスに居残るつもりらしい。何かの店を持ちたいと言う事で、ロスのリトルトーキョーで聞けば居所がわかるようにしておくと言っていた。
その晩、クスコからプーノ行きの列車へ乗る為に駅に行ったが、翌朝の8時にスケジュールが変更になっていた。いまさらホテルへ戻っても部屋が無いので、皆で駅の広場に羽毛の寝袋を広げて寝ることにした。