アルゼンチン入国
国境の手前で列車から降ろされ、徒歩で国境を通る。毎度ながら国境を超えた瞬間から、雰囲気がガラリと変わるのには驚かされる。例により交換レートを何人かの業者に聞き比べながら、15ドルだけアルゼンチンペソに換金した。1ドルが150ペソであった。グアテマラで山岸さんから聞いたレート以上にペソが安くなっていた。
アルゼンチン側の国境の小さな町のレストランで遅い昼食を摂った。赤ワインと分厚くて柔らかいステーキを注文したが1ドルもしない。ボリビアの物価はとても高かったので、アルゼンチンは貧乏旅行者にとって天国だ。この日のうちにバスが無いことがわかり、この小さな町のホテルで泊まる事にした。アルゼンチンの部屋はとても安くて清潔だった。
翌日、バスでフフイに着いた。ここで長い間一緒に旅してきたケンちゃんとブチさん、そして途中で一緒になった佐藤君達と別れることになった。彼らはここからサルタへ行き、チリのサンティアゴへ向かう予定を立てた。僕は一人で首都のブエノス・アイレスへ向かうことにする。しかし、彼らと出会えて本当によかった。とても世話になったし、お陰でとても面白い旅が出来た。特にブチさんにはコロンビアで病気になった時、親身になって看病してもらった。とても感謝している。いつかどこかで再会することを誓いながら別れた。
2/1 ロサリオ
昨晩、9時40分にバスに乗り翌朝の5時半にロサリオに着く、あまり眠くなかったのでまだ暗い中をセントロへ向かって歩いた。歩いているうちに辺りが明るくなってきた。市街地はヨーロッパ風にとても整備されていて綺麗だ。いままで通ってきた中南米の街とはかなり趣が異なる。しかし、朝が早いとはいえ何故か全然活気がないように感じる。年寄りが多いのと、話しかけてもなんとなく冷淡で人当たりがあまり良くないのが残念だ。時々、急に台風のような強い風と雨がふりだすのにも驚かされる。この調子だと、ブエノス・アイレスもあまり良いところではなさそうな気がしてきた。
ブエノスアイレス
列車で真夏のブエノスアイレスに着いた。夏のバケーション中の日曜日のせいか人がとても少ない。レティーロ中央駅前の公園のベンチに座り、天気が良いので荷物を全部出して芝生に広げた。虫干しだ。長距離の移動はとても疲れる。僕も芝生に寝転んで日光浴をした。とても気持ちが良かった。少し経つとちょうどベルトの下、ヘソの周りが痒くなってきた。掻いて赤くなったところをよく見ると、小さな虫を見つけた。潰したら血が出てきた。「うわっ、シラミか?」全身に鳥肌が立った。「なんで?」そうだ、ボリビアのお土産だ。安宿の薄汚いベッドと湿気た毛布を思い出した。ホテルに入ったら良く体中を洗う事にする。
公園では一組の恋人達が年寄りの街頭写真屋に写真を撮ってもらっていた。写真屋は古くてゴツイ木製の三脚に乗った写真機を使い、頭から黒い布を被って彼らの写真を撮った。そして黒い布を被ったまま何やらゴソゴソとやりだし、その場で現像をした。日光写真か?できた写真を覘かせてもらと、なんと白黒写真に赤鉛筆で所々に色を付け出した。写真機も骨董品で驚いたが、このカラー写真にはとても驚かされた。そう言えばメデジンでもカラー写真の現像は出来ないと言われていた。カラーフィルムはパナマのコダックの現像所へ送ると聞いたことを思い出した。
ブエノスアイレスに着いた時点で所持金がちょうど300ドルになった。メキシコからすでに1,200ドル以上を使った事になる。コロンビアのメデジンからロスアンゼルスまで、一番安い飛行機で300ドルかかる。ブエノスアイレスからメデジンへ、バスで戻るのに概算で300ドルかかる。どこかで持物をドルで売って旅行資金を捻出しないと帰れない。しかし、ここの物価の安さには驚きだ。手紙を書くのに買ったアルゼンチン製のパーカー万年筆が330ペソで2ドルもしない。
貧乏旅行者にとってはとても魅力的で住みやすそうだ。何とかまたスペイン語の学校へ行けるのでは無いかと思った。しかしながら、住むのであれば、メデジンが一番よい街に思えた。活気はあるし、雰囲気の良い街であった。そして何よりも人当たりがとてもよかった。そんなことを考えていると、メデジンに戻ってフラッカに会いたくなった。
駅から適当に歩いていると、簡単にホテルが見つかった。その晩は、ホテル近くのレストランに入って食事した。大衆的な店では無いが入りやすい店構えで、クラシックな雰囲気のする店内はかなり広かった。テーブルについて、洒落たウェイターにステーキを頼むと、赤ワインを飲むかと聞かれた。グラス一杯だけと返事をすると。大丈夫と言ってすぐに新しいボトル一本を持ってきた。「ダメだよ、飲みきれない。」と言って断ると、飲んだ分だけ精算するからと言ってコルク栓を抜いた。そして好きなだけ飲んで大丈夫と言われた。ソーダ水も聞かれたのでお願いしたら、大きな瓶で持ってきた。周りを見ると年配の夫婦が多かった。そして驚いたのはほぼ全員の人達が赤ワインをソーダで割って飲んでいた。僕も真似して飲んでみたら、すごく飲みやすかった。
2/6 金 メンドーサ
メンドーサはとても綺麗な街だ。ブエノス・アイレスから1000キロほど離れている。広大なパンパの中を列車に乗ってはるばるアンデスの麓、アルゼンチンワインの産地にやってきた。街の周辺はブドウ畑が広がっており、遠くには雪の積もったアンデス山脈が屏風のように連なっている。夕方になり、宿を探しに街を歩いていると、フフイで別れたケンちゃんたちとバッタリと出会った。リマのペンション西海で知り合った五木さんもいた。まさか、こんな所で皆と再会できるとは本当に驚いた。彼らと一緒にドミトリーのようなホテルリンコンに泊まることにした。
翌日、彼らはバスでチリのサンティアゴへ向けて発った。今度こそお別れだ。一人になって街を散策すると、僕はこの町がとても気に入ってしまった。街並みがとても美しく、物価が安いからだ。
メンドーサの大通りは街路樹にとても大きな木が植えてある。街路樹と歩道の間に空堀が掘ってあった。朝と晩、一日2回、街路樹のために堀に水が流れるようになっていた。大通りにはレストランやカフェテリアが連なり、広い歩道にテーブルを出している。このヨーロッパみたいな洒落た雰囲気が気に入ったので、スペイン語のクラスを探すことにした。
ブエノスアイレスで見つかったシラミは、ここの国立病院に行って薬をもらって駆除することができた。年配の医者の後ろに、若い美人のインターンが立って居た。医者にパンツを下された時は、インターンの視線が気になって顔が真っ赤になった。診療費と薬代は外国人旅行者でも無料だった。
一人になってホテルを替えた。中庭が付いていて居心地が良い宿で、明るく2ベッドの広い部屋だ。ドルが強くなり、1ドルは220ペソまで上がったので、一ヶ月泊まってもたったの35ドルだ。真夏であるが乾燥しているので、日陰や部屋の中はとても気持ちがよい。しかし、風邪をこじらせてしまい、体調が良くない。
街中を歩いていていると、英語を教えている小さな教室を見つけた。中に入りオーナーに相談すると、マンツーマンで週3日、計6時間、一ヶ月2000ペソ払うことで話がまとまり、スペイン語を教えてもらえることになった。先生はオーナーの娘さんが担当してくれる事になった。ブエノスアイレスで見つけた日本語で書かれたスペイン語文法の入門書が役に立ちそうだ。スペイン語の先生は19才の大学生だった。すごく落ち着いて堂々とした教え振りだ。金髪でキリッとした顔立ちをしているので、家族がどこ系なのか聞いたところ、お爺さんがドイツから来た移民だそうだ。日本人とドイツ人はなぜかウマが合う気がする。
2/14 土 メンドーサ長期滞在
物価が安いのでなんだかんだと随分買い物をした。洒落たデザインの革のジャンパー、カバン、ジーパンなどを買い揃えた。毎日、ドルの交換レートがかなり上下するので、一度に換金するのは5ドル程度にする。たまたまジーパンを買った店は、女の子が二人で働いている。金髪の店長のリリアーナと、店員の黒髪のスペイン系のマルガリータ。二人とも明るくて面白い。店は年中暇そうなので、スペイン語クラスの後に顔をだすようになった。僕にはスペイン語の会話練習になった。
それにしてもアルゼンチン人は羨ましいくらい裕福な暮らしをしている。綺麗な街並みで、気候もよく食事も美味しい。街の中心から少し離れた住宅街を通ると、各家の前の歩道は一軒ごとに異なったタイルが貼られており、毎朝、家人がタイルにモップがけをしていた。
たまたま通りで高校生くらいの男子に声をかけられた。アルゼンチンでは珍しい。どこから来て、何をしているのかとか、日本製のオートバイの話とか立ち話をして別れた。数日後、また通りで再会した。翌日、家に招待されて昼食をご馳走になった。家はアパート(日本のマンション形式)であったが、とても広く内装も豪華であった。テーブルクロスがかかっている大きなテーブルには、彼と母親そして僕の3人で座った。
彼の母親はとても綺麗な顔立ちをしており、オシャレな服を着ていたが、少し気取って冷たい感じがした。父親はワイン畑を持ち、ワイナリーも経営しているとかで、息子も大学でワインの醸造学を専攻しているそうだ。息子は僕からもっと色々な話を聞きたがっていたようだが、僕は何となく彼の母親に気に入れられなかったように感じたので、早々に退出した。
街はとても綺麗であるが、もう一つ住む気になれない。アルゼンチン人は他の中南米諸国と異なり、イタリア系、スペイン系が多い。そしてその他、ヨーロッパ系の移民から成り立っている。先住民であるインディオ系の人々は非常に少ない。街中を歩いていて治安が悪いとは感じないが、住んでいる土地の人達に面白みに欠けるところがある。差別された事もないが、何か冷たさを感じる。東洋人に偏見を持っているのかもしれない。
2/16 月 ストライキ
今朝、スペイン語クラスの先生は9時を過ぎても来なかった。何の日か知らないが、レストランも閉まっていた。カフェテリアも閉まっていて朝食を食べることもできなかった。街角のあちこちに武装警官が立っていた。ストをやっているようには見えないが、早々にホテルに帰ることにした。ホテルの受付の話では、雇用者側が政府の政策に反対して起こしたストだったそうだ。アルゼンチンがイマイチ好きになれないのは、生活が満たされていているわりに活気が感じられないところだ。街中も老人の方が多いようだ。若い連中はどうしているのだろうか。
2/21 手紙が届いた。
18日、待ちに待ったフラッカからの手紙が届いた。嬉しかった。今まで僕が出していた絵葉書や手紙が届いていなかったのではないかと疑っていた。どうやら彼女は今まで送った絵葉書を気に入ってくれたらしい。僕は彼女のことが大好きだ。彼女も僕と同じ気持ちでいるのが分かり嬉しかった。彼女みたいな女性に会ったのは初めてだ。考えてみれば言葉もろくに通じなかったのに、心は確かに通じていた。メデジンを遠く離れるほど思いは募っていくばかり。彼女のことを考えると胸が苦しくなる。恋するとはこういう事なのだろう。
この日、日本からの手紙も届いた。兄の結婚式が無事に済んだ。とっても良いお嫁さんだそうだ。兄からの手紙も同封されていた。今、とても幸せだという気持ちが文面から滲み出ていた。僕も嬉しくなった。また家族の皆がとても僕のことを心配している様子が伝わってきて、手紙を読みながら目に涙が溢れた。僕は心から幸せな男だと思った。そしてもう一通、バイトの大先輩であるエミちゃんからの手紙も受取った。エミちゃんは兄の中学の同窓生でもある。バイト先でお世話になった人達の近況が書かれていた。実はエミちゃんから得た情報を元に安い航空券を買うことが出来たし、宗三郎さんの奥さんはエミちゃんの親友で、ロスに行ったら尋ねるように紹介してくれた。
この日の昼は、ジーパン屋のリリアーナの家に、チリ人一家と一緒に招待された。チリ人一家は夏休みのバカンスでメンドーサに1ヶ月間滞在しており、ジーパン屋で何度か会っていた。さすがにイタリア系のアルゼンチン人が作ったスパゲッティは美味しくて、お腹が一杯になった。チリ人一家は長女がジスレイ、次女がヤシカそして末っ子のソランジという3人娘だ。皆かわいらしい。ジスレイは16才でかなりませている。時々周りに誰も居ないと僕にチョッカイを出して来て困る。
2/26 木 ペルー人留学生
メンドーサに着いてから、1週間ほどは毎日ホテル近くの高級レストランで食事をした。夕飯には料理のフルコースにワインを1本付けてもらっても1ドル程度だった。しかし、すぐに飽きてしまった。他の軽食屋さんでステーキサンドイッチを食べたりしたが、やはり1週間ほどで飽きてしまった。
ジーパン屋で、ペルー人留学生の三人娘と親しくなる。ペルーを旅行したときペルー人は好きになれなかったが、彼女らはあまりペルー人らしくない。彼女達三人は医学生で、育ちの良さか?三人共性格が良くて話しやすい。彼女らが住んでいるペンションは、中心街から少し離れた住宅街の中にある。ペンションでは料理も提供していると聞き、試しに行ってみた。
メニューは日替わりの定食で、安くて美味しい家庭料理だった。この日からほとんど毎日、スペイン語クラスの後に昼食を食べに行った。大学は夏季休暇だったので、三人娘と食後にトランプをして遊んだ。日本の遊び方も教えたが、彼女らの遊び方も教わった。彼女等のお陰で楽しく会話の練習ができ、かなりスペイン語が上達したように感じた。
この二、三日残暑なのかすごく暑い日が続いている。時の発つのがとても早く感じる。もうスペイン語クラスも残るところ一週間もない。言語を学ぶには最低でも半年は現地に滞在する必要があると思う。今後、日本へ帰ってからもスペイン語の勉強を続けていこうと思う。ここの物価が安いのでつい買い物をしてしまい、残りのドルも少なくなってきた。今日、チリ人一家の甥のホセから、チリのクリコに遊びに来いと誘われた。でも十分な金もないし、早くフラッカと再会したいので誘いを断った。でも大半の日本人旅行者が言うように、チリ人は良い連中が多い。
2/29 手紙
昨日、姉からの手紙が届いた。兄の結婚式のことや、家族の事が書かれていた。姉が思っていた以上に長期になった旅、一人でどんな生活を送っているのかとても心配しているようだった。
今日、チリ人一家が長いバカンスを終えて帰国する事になった。ソランジからお別れに手紙をもらった。ソランジに返信を書いて、記念に100円玉を同封した。かわいい小学3年生だ。再び会うことがあるのだろうか。
3/6 トゥクマン
昨日の昼過ぎ、メンドーサをバスでトゥクマンへ向けて発った。久しぶりの長距離バスに乗る。色々な事が回想されて良く眠れなかった。一ヶ月間、あっけなく過ぎ去った。メンドーサでは多くの友人が出来た。ジーパン屋のリリアーナにマルガリータ、そこで知り合ったチリ人一家、ペルーの留学生3人娘、チリから移住してきたワシントン一家、皆良い人達だ。
メンドーサを出る前、日本製の羽毛のシュラフとセーターをペルー人留学生のジャネットに75ドルで買って貰った。もう寒いところは通らないので日本製の紺のアノラックも売った。旅行資金ができて助かった。皆といつか再会することは無いと思いながらも、いつか再会できることを期待しながら別れた。
トゥクマンのバスターミナルで日本人旅行者と出会った。話をしていると、警察官が現れて職務質問を受けた。事務所に連れられていき、荷物を出して全部調べられた。旅をしていて初めてのことで内心かなりあせった。荷物検査はなんのためか、麻薬類を所持していないか調べたのかも知れない。こっちは逆に警察官がわざとコカインを荷物の中に入れないか心配した。
アルゼンチンの北部はインディオ系の人達が多く、彼らは許可を得て合法的にコカを栽培しており、伝統的かつ日常的にコカ茶を飲んでいる。しかし、コカの栽培は他州では禁止になっている。もちろん他州同様、コカの葉から精製されたコカインは違法である。
中南米では警察官が金欲しさに旅行者の持ち物を調べることがある。悪徳警官はコカインやマリファナを調べている荷物の中に入れ、これは何だと出して見せることがあるらしい。警察官はなんでもできるので内心怖かった。メンドーサがあまりにも綺麗な街で治安も良かったことから、余計にトゥクマンの印象が汚らしく見えた。物価もメンドーサよりも高かったので全く好きになれなかった。
3/7 サルタ
昨夕、バスターミナルに近いペンションのような造りの安宿に投宿した。街はカルナバルの真最中だった。夕食後、陽が落ちてから近くの大通りにダンスのパレードがあると聞いて行ってみた。何か暗く単調なアンデスのリズムで、物悲しい感じのカルナバルだ。パレードで踊っていたのはほとんどがインディオ系の人ばかりで、表情も笑っておらずとても奇異に感じた。
サルタはコロニアル風の建物が多く、情緒のあるとても綺麗なところだと聞いていたが、街の周りは砂漠でとても暑く、あまり良い雰囲気のするところではない。何も面白く感じられないのは、きっと久しぶりに一人になったからかも知れない。こういう時は知らないうちに、フラッカの事ばかりを考えてしまう。
ここからチリのアントファガスタへ鉄道が走っている。水曜の16時40分に出るそうだ。それまではとても暇だ。同じ宿に男女数人の若いアルゼンチン人が泊まっていた。食事付きのペンションなので、皆で大きなテーブルで一緒に食べた。彼らから夜開く野外ディスコへ誘われた。ディスコは街の郊外にあり、大音響の音楽が鳴っていた。皆で泡の出るエアゾール缶を買って、踊りながら誰彼となく泡を掛け合った。ちょうど良い憂さ晴らしになった。
3/13 ルート変更
サルタはついていなかった。鉄道員の言う事を信じて3日間待って駅に行ったら、「今日は来ないから来週の土曜に来い」と、あっさり言われた。チリ行きのバスはいつも満員で、行くたびに明日だと言われた。他にチリへ行くルートはメンドーサからと言われ、結局バスでメンドーサへ戻ることにした。戻る途中でバスが故障してしまい、4時間も遅れた。お陰でトゥクマンで乗換えのメンドーサ行きに間に合わなかった。頭にきたが、これも旅のうちだと笑わざるを得なかった。