3/23 サンティアゴ・デ・チレ
メンドーサからバスでアンデス山脈を超えてチリに向かう。山上の国境に近づいていくと、車内が少しザワつき出した。大半が家に帰えるチリ人で、荷物から真新しい衣類を出して重ね着を始め出した。隣に座っているチリ人のおばさんも重ね着を始め、僕にジーパン一本を預かってもらうように懇願された。理由が分からないので聞いてみると、アルゼンチンペソの暴落で物価の安いアルゼンチンで購入した沢山の物品の関税対策だそうだ。これで僕も密輸の片棒を担ぐ事になった。しかし、国境では厳しい検査は無く、すんなりと入国ができた。
サンティアゴはチリの首都だ。第一印象は少し暗い感じがしてあまり綺麗な街ではないが、夏場は過ごし易く、穏やかでこじんまりした都会であった。市内の河畔にある日本人協会で泊めて貰った。大きな門と塀に囲まれた、広い庭のついた白い二階建ての豪邸だ。二階がドミトリーになっていて、病院の大部屋みたいにベッドが沢山ならんでいた。とても清潔な宿である。
管理人は日本大使館でコックさんをしていた早乙女さんだ。彼が作ってくれる日本食はすごくうまいので、中南米を旅行してくる日本人の溜まり場だ。飯もうまいし、チリワインも安くてうまい。そしてここまで来る旅行者の経験談が面白いのでつい長居してしまう。
ここで大学を休学して旅行しているB氏と親しくなる。何を専攻しているのか分からないが、易経や手相について真剣に取り込んでいるそうだ。自身の将来を占い、大器晩成で40才過ぎてから運勢が良くなると信じている。それまでは焦らない生活を送ると言い、人生経験を豊かにするために世界旅行に出たそうだ。勿論、将来は占いで食っていくと決めていた。そんな彼との会話がとても面白い。
旅にはとてつもない魅力や魔力がある。ある程度の資金力があれば、何も心配せずに楽しい日々を過ごすことが出来る。知らない土地を移動することが刺激を生む。好きな時に酒を飲んで飯を食い、好きな場所ができれば好きなだけ滞在し、その土地の人々と交流しながら好きなことをする。事故や病気にかかるリスクがあるが、海外旅行保険に加入している限りリスクを感じる事はない。他人に迷惑を掛けることがなければ、行動を束縛されることもない。世の中でこんなに楽しいことはない。何の義務も責任もない全く自由な風来坊だ。
世界には旅する魅力を感じて長期に旅を続けている日本人が結構いる。そして魔力に取り憑かれた旅行者の中には、日本を出て8年以上になるという猛者も何人かいた。彼らは人件費の高いヨーロッパや北米でバイトに精を出し、資金が貯まれば物価の安い国々を放浪する。
しかし、視点を変えて彼等の旅の様子を見れば、旅が生活そのものになっているようで、将来が気になる年令になっても惰性で旅をしているようにも見えた。確かに彼らから面白い体験談を沢山聞くことが出来る。だが、こころに残る本当に面白い話を聞くことが出来きた人達は、目的を持った旅をしている人達だった。
リマのペンション西海で会ったケーナのうまいタカさんは小説家を目指しており、旅行記を執筆するために旅をしていると聞いた。彼の話しかたは穏やかであったがとても面白かった。そしてクスコの登山家氏も、世界の高峰を登山するという目的を持っていた。二人とも人を惹きつける魅力を持っていた。
僕の場合は、多分、多くの貧乏旅行者と同じように、できれば世界を実際に見てみたいと言う単純な理由で、他にハッキリとした目的意識を持って旅に出たわけでは無かった。そんな事を考えたり、自分の将来をどうするかと考えることが多くなってきた。だんだんと、別に無理して世界一周する必要も無いかと感じるようになった。
CURICO
せっかくサンティアゴに来たのだから、クリコに行く事にした。親しくなったチリ人一家に挨拶してから去りたいと思い、南へバスで約3時間の小さな街へ向かった。荷物は日本人協会で預かってもらい、パスポートと財布だけ持って一泊の予定で出発した。クリコには夜の7時に着いた。中心街にあるツーリスト・インフォメーションがまだ開いていたので、ソランジにもらった住所がどこなのか尋ねてみた。
僕はてっきり住所だと思っていたが、私書箱の番号であった。お母さんの名前、ルス・ワラックで電話帳を調べてもらったが、オヤジさんの名前で登録されているらしく分からなかった。そういえばオヤジさんの名前を聞いた事がなかった。そのうちに、中心街で文房具屋をしているのを思い出した。
ツーリスト・インフォメーションで働いているエリザベスさんが、車に僕を乗せて一緒に文房具屋を探しに出てくれたが、すでにどこの店も閉まっていた。娘の一人がフランス語学校に通っているのを思い出し、学校まで一緒に行ってくれた。学校の事務局で事情を説明してようやく住所を知る事ができた。エリザベスさんが車でその住所まで連れて行ってくれた。助かった。
ソランジの家の扉を叩くと、家族一同驚きながらも暖かく迎えてくれた。夕食中であったらしく、すぐ食卓へ通されて暖かい夕食をご馳走してくれた。予定を聞かれたので、「今晩はホテルに泊まり、翌日サンティアゴへ戻ると言った。」すると、「何を言うのだ、ここに泊まれ、一月は泊まっていけ。」と親父さんに言われた。着替えもサンティアゴへ置いてきてしまったが、一週間ほどお世話になることにした。
翌朝、目を覚ますとすでに娘三人は学校に行って、家にはいなかった。オヤジさんも、仕事に出かけていなかった。お母さんのルスもキチンと服に着替えていて、「朝ごはんはテーブルの上に置いてあるから、食べたらこの鍵で戸締りしてね。」と言って、出かけようとした。僕は慌てて、「すぐ服を着て朝ごはんを食べるから待って」と、言った。旅行中に知り合っただけなのに、信用されるのは嬉しいが、初めて泊まる家に一人残されては困ると思った。
クリコの滞在中は、毎朝ツーリスト・インフォメーションへ行ってエリザベスさんと話したり、午後は学校から戻ったソランジと彼女の友人達と一緒に、家の近くの公園でカクレンボしたりして遊んだ。滞在3日目、お母さんのルスが、「洗濯するからきている服を全部脱ぎなさい。」と言って、長女のジーパンと夏物の薄い紺のセーターを持ってきた。長女のジスレイは体が大きいので、着ることができた。少し恥ずかしかったが、服が乾くまで借りることにした。パンツも洗うと言われたが、新しいのを購入してから自分で洗った。僕が寝ている部屋も長女の寝室らしい。僕が居候して居る間、彼女は妹の部屋で寝た。ずーっと、ソランジの相手をしていたので、すっかりジスレイから無視されるようになった。なんかホッとした。
食後は毎晩居間で両親の好きな古いチリのレコードをかけて歌い、まるで家族の一員になったように楽しく過ごした。 🎵Si vas para Chile, Te ruego que pases por donde vive mi amada. Es una casita muy linda y chiquita, Que está en la falda de un cerro enclavada……Si vas para Chile, Te ruego viajero, Le digas a ella, Que de amor me muero……🎵あなたがチリに行くのなら、ぜひ私の愛する人が住んでいる所を訪問してください。そこは丘のふもとにたたずむ、とてもかわいい小さな家です……あなたがチリに行くのなら、旅の人お願いです。私は死ぬほど彼女を愛していると伝えてください……
泊めて貰っている家には小さな中庭がありブドウがたわわになっている。食後はデザートとして、熟れたブドウの大きな房をいくつか切り取って食べるのがとても贅沢だ。最後の週末は車で近くの村祭りに出かけ、郊外の河原でバーベキューをしながら送別会を開いてくれた。
クリコから電車でサンティアゴに戻る日、僕にとても懐いた小学生のソランジが、別れを惜しんでお母さんと一緒に駅まで来た。そしてボロボロ泣きながら見送ってくれた。彼女を見ていると僕の胸もつまり、「いつかまた会おうね、それまで元気でいてね」と言うだけが精一杯だった。そして彼女を抱き上げて頬にキスをした。なにかとても辛くなった。列車が走り出してからとうとう僕の頬も熱い涙で濡れてしまった。「別れも旅のうち、旅の醍醐味か。」溜め息が出た。
サンティアゴからチレブスという長距離バスに乗り、北の国境アリカに着いた。28時間近くかかった。久しぶりに長いバスで少々疲れたが、このバスは飛行機見たいに食事もついていた。今まで乗ってきたバスの中で、一番綺麗でサービスの良いバスだった。
3/26 ペルー再入国
ペルーに入ってドルからソーレスに交換したが、何故かドルからチリのペソに換え、そしてペソからソーレスに交換する方が、良いレートで換金できることを知った。国境の町、ペルーのタクーナで中華レストランに入った。オーナーの両親が沖縄出身の日系2世だとわかり、僕が日本から来たと言うと昼飯をご馳走してくれた。久々の中華が美味しかった。食後、オーナーの友人が味の素の配送トラックで店に来た。オーナーが僕の事を友人に頼んでくれたので、アレキーパまで同乗させてもらった。夜は途中の町で同じ安ホテルに泊まった。
翌日、アレキーパのバスターミナルはとても混んでいた。そこで知り合いになったチリ人母子の息子に荷物の番をしてもらい、多くの人と押し合い圧し合いしながら何とか切符を買うことができた。チリ人の息子の所に戻ってくると、土産物を入れた革のカバンがなくなっていた。盗まれたのだ。友人達からもらった思い出の品と、いままでの旅行で撮った写真やフィルムのネガを全て失ってしまった。これが一番痛かった。ついにやられたと思う反面、自分の迂闊ぶりが情けなかった。
チリ人の息子は荷物が盗まれたことに気がついていなかった。一瞬、彼がやったのかも知れないと疑ったが、証拠がまったくない。しかし、僕も迂闊だったのだ。治安のよかったアルゼンチンとチリの滞在が長くなり、ペルーに入った時点で頭を切替えていなかった。とても残念で悔しい思いをした。
バスでコロンビアを目指して一路北上中、日本に帰国したらどうしようかと思案をめぐらす事が多くなった。帰国して自動車整備士として再就職するのではなく、大学へ入って少し話せるようになったスペイン語を勉強する。できればガイド資格を取って、小さな商社にでも就職して南米で暮そうかと夢想する。この旅行中に大学に行くのは重要だと思うようになった。メカニックの仕事はあまり好きにはなれなかったので、できれば語学を活かせる仕事をしてみたいと思うようになった。
4/4 メデジン再び
再び、勝手を知ったメデジンの安宿、モン・アモールに投宿する。チリの北から出発して、夜行バスを乗り換えながらたったの1週間でメデジンに着いた。ものすごい強行軍だった。ここからお世話になったメンドーサの友人達や、クリコのチリ人一家に下手糞なスペイン語で手紙を出した。
大意は、メデジンに無事着きました。僕は大好きなフラッカと再会できました。彼女と結婚したいと思うけれど、僕はお金も仕事もなく、貧しいのでとても難かしいです。もし結婚できるとしても、最低でも今から1年半以上はかかります。こんな手紙を何通か書きながら、将来をどうするか色々と悩んだ。ニューヨークでバイトして金を貯め、その金で日本でスペイン語を勉強してからガイド資格をとり、それからコロンビアで日系の会社に勤める…と、夢想した。
ある晩、いつものようにフラッカの家で夕飯をご馳走になり、夜10時頃、モン・アモールへ戻る途中、フラッカの向かいの家に住んでいるギジェルモにばったり出会った。「この辺は夜になると危険だからオレの家に泊まれ」と誘われた。僕は明日お邪魔すると言ってそのまま別れた。
翌日、慣れ親しんだ安宿を出て、ギジェルモの家に帰国するまで居候させてもらうことになった。朝はこの家で食べ、昼は階下に住んでいるマルタの姉さんの家で食べる。何もせずにブラブラして、午後は小学校から帰ってきた姉さんの二人の娘と遊ぶ。夜は大学から戻ってきたフラッカと一緒に彼女の家で食べる。よく皆でメンドーサでやったようにトランプで遊んだ。すっかり体調が良くなったフラッカの父親も皆と一緒に遊んだ。これにはフラッカや彼女の姉さんも驚いていた。父親は今までフラッカの同級生であろうと誰であろうと、若い男を家に入れることは無かったそうだ。
居候なのに良く食べた。こんな生活を一月近く続けた為に、旅行中とても痩せていた僕の体重がドンと増えた。毎日一緒にいると、余計に彼女が大好きになった。結婚したいと思うが・・、日本に居る家族、特に母の泣き顔が目に浮かぶ。僕が夢想しているように事がうまく運ぶだろうか。気が重くなってくるが、クヨクヨすることは無い。「考えすぎるよりは実行しよう。」と、声に出した。
4/12 将来について悩む
確実に大好きから恋に変わってきているみたいだ。なにか胸の中がモヤモヤしてとっても苦しくなる。一人で居るとき、彼女と一緒になるにはどんな職業をしたらよいのか。色々なことを考えることが多くなる。どのように暮らしたらよいのか。まったく分からない。
今更、日本へ帰って大学に入りなおしていたら時間の無駄になる。大学出ても単なる新人だ。習ったことが実社会ですぐには使えない。どこかの会社で南米に派遣してもらう事はそう簡単ではない。そうであれば、一度始めたメカニックの仕事を徹底的に追求して見るほうが近道だ。
幸いメデジンにはヤマハやカワサキのオートバイ工場もある。現地で就職できる可能性がありそうだ。スペイン語は働きながら勉強を続ければよい。ここ数日間悩み続けていたが、ようやく結論が出たような気分になった。おぼろげだがようやく目指す的が見えてきた気がした。「的に向かって前進・努力するのみ。」と、腹から声を出してみた。
4/20 メデジン滞在延長
本当は今日発つ予定であったが、まだロスから航空券が届かないので困った。日本へ帰国する分の航空券をロスのアンディに預けてきたのだ。もうほとんど現金が無いので、マイアミからアメリカへ再入国する際に問題となる。航空券を見せれば、不法滞在する気はなくロスから帰国する証明として入国審査時に必要になるはずだ。25日まで待って届かなければ、そのままアメリカへ行く。最悪の場合はイミグレーションからロスのアンディに連絡をとってもらうしかない。そうなったら確実にバイトなど出来なくなるが、すでにその気は無いので困らない。
昨日は参った。フラッカのおっかさんに、「彼女はダメ、他の恋人を見つけなさい。」と、きっぱり言われてしまった。本当に参った。向かいの家に住んでいるフラッカの姉さんは、「冗談よ、冗談。」と言ってくれたけど、あの時の彼女の目は冷静な母親の目をしていた。確かに僕は単なる外国人の旅人で、それも貧乏旅行者だ。スペイン語も満足に話せず、必ず戻ってくると言っても信じてはもらえない。でも僕は真剣だ。「120回手紙を書くぞ。絶対に戻ってくる」と、心に誓った。
4/21 メデジンを発つ。
夜、いつものように、彼女の家のベランダの窓に二人して腰をかけ、色々な話をした。彼女に僕の心の内を話し、2年半待ってくれるか聞いてみた。彼女の返事は今日から僕が戻ってくる日を待つと言ってくれた。嬉しかった。そこで真剣に計画を立てることにする。日本でメカニックの修行をしながら金を貯める。事情が許せばやりたいと思っていたアメリカでのバイトは止めだ。プロとして世界中どこでも通用するメカニックになる。メデジンでは車よりもオートバイの方が可能性が高いかも知れない。ようやく心が決まった。
僕の旅は長いようでとても短かった。旅の最後のメデジンでの滞在中、色々な事があった。メデジンを発つ前の晩、フラッカの友人のクララやカルメンサは別れを惜しんで泣いてしまった。こんなにも僕を愛してくれる人達が自分の家族の他にいるだろうか。心配なのはフラッカの体で、どうも胃潰瘍らしい。無理せずにしっかり治してほしい。
カルメンサからお土産に一緒に遊んだトランプ、オルランドからシャツ、フラッカの両親からハンカチをもらった。飛行機の窓から見送りのベランダに立つフラッカや皆の顔が見える。僕の顔は涙でクシャクシャになった。「絶対戻ってくるからね」と、心に誓った。「それまでサヨウナラ、皆元気でね」。