A. 20才の秋、旅に出た。(16/16) 帰国

A.20才の秋、旅に出た。

4/29 ロスアンゼルス再び

マイアミの空港で問題は起きなかった。帰国の航空券は手元に無く、現金もほとんど無かったので別室に通されて全荷物の検査を受けた。係官からいくつかの質問を受けたが僕の説明に納得してくれたようだ。彼はロスのアンディの住所と電話番号を控えてから、5日間だけの滞在を認めてくれた。僕にはそれで充分だった。アメリカに居残る必要はまったく無い。

マイアミから一番安い夜の便で、深夜のロスの空港に着いた。誰もいない閑散とした空港内のベンチで夜を明かした。他に二人ほどベンチに横になっている旅行者がいた。深夜、黒人の清掃員が機械を使ってフロアを掃除し出したが、何も言われなかった。朝、アンディに空港の公衆電話から電話してみるが繋がらなかった。

ミツルのところに連絡するとアンディが引っ越した事を知った。僕からのレターが彼に届かなかったようだ。だからいくら待っても航空券の写しが送られて来なかった訳だ。ミツルのアパートまでタクシーで行き、ミツルがアンディから預かっていた僕の帰りの航空券を受取り、彼に宗三郎さんの家まで送ってもらった。宗三郎さんの家で二晩お世話になることになった。本当に美味しい日本食をご馳走してもらった。居候癖がついてしまったようで、日本人の美徳の一つと言われる?”遠慮する”が無くなってしまった。

5/2 帰国

羽田を飛び出してから7ヵ月後、新国際空港の成田に到着した。ポケットにはたったの50ドルしか残っていなかったが、心には一生忘れない思い出が一杯詰まっていた。実家には帰国する日時を伝えていなかったので、一人で普通電車に乗って家に帰った。すでに外は暗くなっていた。

突然家に着くと両親や兄が驚きながらも僕の帰国をとても喜んでくれた。喜ぶ両親の柔和な顔がピカピカと輝いて見えた。そして仏様のように二人とも頭に後光が差していた。その事を父に告げると、真面目な顔で「お前は目が鋭くて、すごく怖い人相をしている。まるで狼みたいだ。」僕の顔を見て、よっぽど凄い旅だったのではないかと思ったそうだ。その時、漠然と、この旅で自分の中の何かが変わり、自分の新たな人生が始まろうとしているのを感じた。

エピローグ:

日本に戻ってから国際電話は非常に高額だったため、フラッカと国際郵便を利用した文通を行なった。なぜか日本とコロンビア間は手紙の届くのが非常に早く、速達ではたったの5日で届くこともあった。コロンビアから米国、または近隣諸国でさえも20日くらいかかるそうだ。

帰国してから2年半が経ち、海外でメカニックとして働くために修行させてもらった故郷のオートバイ店を辞めた。紹介してもらったカナダのオートバイ販売店で働く事になった。カナダ大使館で永住ビザが発給され、年が明けてからバンクーバーへ渡った。入国時に永住ビザの確認を受け、翌日の便で約束通りにメデジンに戻った。フラッカを驚かそうと思い内緒にしていた。飛行場からタクシーで直接フラッカの家へ向かった。家の扉を叩いたが反応がなかった。そしたら向かいの家の扉が開いて、フラッカの姉さんがとても驚いた顔をして出てきた。

フラッカの居所を聞いたら、斜向かいの友人宅に居ると言って大きな声で彼女の名を呼んだ。すると斜向かいの家からフラッカが飛び出してきた。2週間ほど、彼女の友人宅に泊めてもらった。残念ながら、すでに親父さんは亡くなっていた。

僕は彼女にプロポーズをした。約束どおり僕が戻ってきたことでフラッカの母親も反対しなかった。そこで、半年後の夏休みにメデジンで結婚することにして、2週間後、僕はトロントへ飛び立った。その後、休暇をもらいメデジンで結婚できたが、フラッカのカナダの永住ビザが出ないため一人でカナダに戻ることになった。彼女のビザを待ちながら離れ離れで暮らしていた。本国では何故かビザの状況が全く分からなくなっていた。カナダの長い冬、極寒の気候も好きになれなかったので、1年後とうとう痺れを切らした私はコロンビアに移った。

メデジンでは自分のオートバイの修理専門店を開いたり、日本の船外機の輸入代理店で働いたりした。その間、子供が二人生まれた。後に縁があって、日本の国際協力団体のコロンビアの水産開発案件で、漁船関連の修理指導専門家として働いた。その後、海外で漁業協力活動を行なっている財団法人と契約し、主に漁船機関の専門家として中南米、アフリカ方面、ミクロネシア連邦などにも派遣された。ブログを書き出した2024年、すでに定年して69才になる。もちろんメデジンに今でも住んでいる。メデジンは残念ながら以前のように緑多き谷間ではなくなってきたが、今でも常春の地に変わりない。

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