1)鉢植え泥棒
私がメデジンで最初に住んでいた家は、2階建ての建物で下に2軒、上に2軒の合計4軒の家に別れていた。私の住んでいた2階の住居は、通りに面して細長いバルコニーが付いていた。そこには義理の母が大切に育てていた幾つかの植木や花の鉢植えが置いてあった。ある晩、すっかり寝込んでいた時、妻に起こされた。そして私が声を出す前に、小さな声で耳元に「シーッ、静かに、誰かがベランダに居る。それも二人。」と、言ってきた。私は妻の言葉で完全に目が覚めた。息を殺して聞き耳を立てたが、外はシーンと静まり返っていた。私も念の為に妻の耳元で、「何も聞こえないよ。勘違いじゃないの?」と、言っている間にバルコニーで人の気配を感じた。
そっとベッドから降りて、部屋の隅に置いてあった木刀を握った。居間からバルコニーに出て侵入者に一撃を与えようと、木製の古い扉の留め金を外した。素早く扉を押し開けようとしたが、古い扉がフロアに擦って音を立てた。私が扉を開けるよりも早く、二人の男がバルコニーから飛び降りた。階下の通りを走って行く二人の影が見えた。「泥棒、馬鹿野郎」と、逃げて行く背中に怒鳴ってから部屋に戻り、着替えをして出て行こうとすると、「何するの?」と、妻が聞いてきた。私が同居する前にも一、二度、鉢植えを幾つか盗まれた事があるのを聞いていたので、怒りながら「コソ泥め、許さん、捕まえる。」と、言って車の鍵を手に取った。妻も一人じゃ危ないと言って、すぐに着替えて一緒に車に乗り込んできた。
坂道を降りて行くと、突き当たりの歩道に5人ほど屯している連中が居た。車をゆっくり走らせながら彼らの前を通ると、その内の二人が頭を垂れて、顔を隠していた。わざと車を一旦停止させて彼らの様子を見てから再発進させた。そのまま最寄りの警察の派出所まで行った。対応してくれた私服の刑事に状況を説明すると、彼は腰のホルスターから拳銃を抜いて装弾を確認した。「よし、行こうか。焼を入れてやる。」と、言いながら、私達の車に乗り込んだ。内心、刑事の本気度に驚いた。
もう一度、連中が屯していた場所に戻ると、そこはシーンとして人影は見当たらなかった。周辺を走ってみたが誰も居なかった。刑事を派出所まで送ると、いつでも何か問題が起きたら言ってくれ、すぐに対応するからと言って所内へ入って行った。その後は何も起こらず、例の泥棒達も居なくなったが、1週間もすると又いつもの様に同じ場所に彼らは屯していた。
この国の法律ではカトリックの影響が強いせいか、どんな酷い犯罪を犯しても死罪はない。終身刑はあっても、刑期短縮で出所する犯罪者が多いと聞いた。聞いた噂では賄賂で刑期が短くなるとか、刑務所の慢性的な定員オーバーのため、刑期によってはすぐに釈放することもあるそうだ。いずれにしろ、建前は受刑者達を更生させるような事を言っているが、実際には刑務所で反省するどころか、より悪く、そしてより狡賢くなって出てくる犯罪者が多いそうだ。
死刑が無いとはいえ、刑務所を何度も出入りする様な手に追えない犯罪者は、路上で誰かに処分されるケースが多いとも言われていた。被害者の家族が報復したりするケースや、安くヒットマンを雇う話も聞いたことがある。中には警察によって人知れずに処分されたと言う噂も絶えなかった。
2)大人しい好青年?
私がオートバイ修理店を始めてから少し経った頃、26才くらいだったと思う。近所に住んでいた一人の高校生エフラインと親しくなった。市のオリンピックスタジアム内の空手教室に一時期通っていたそうだ。私は移住してから空手のトレーニングは全くしていなかったので、時々一緒にトレーニングをすることになった。そのうち、彼の友人で空手を習っている大学1年生のカルロスも一緒にトレーニングに参加する様になった。彼はハンサムでいつも礼儀正しく、ニコニコしている好青年であった。
彼の家は私の家から近く、歩いて10分くらいの所にあった。家は2階建てで交通量の多い通りに面しており、屋上は広いベランダになっていた。何度か一緒にトレーニングをしているうちにとても親しくなり、いつしか彼に誘われて屋上のベランダでトレーニングをするようになった。彼は両親と、二人の妹、そして末っ子の弟の6人で住んでいた。
毎週1回は彼の家に呼ばれてトレーニングを一緒にしていたが、パタリとお呼びが掛からなくなった。勉強が忙しくなったかと思っていた頃、久々にトレーニングをしようと誘われた。例によってベランダで軽いトレーニングをした後、なぜ一月近く連絡して来なかったのか聞いてみた。彼は淡々と理由を話してくれた。それはとても驚愕する内容であった。
ある日、中学生の弟が街で二人のチンピラに恐喝されて所持金を奪われてしまった。彼らは恐喝だけでなく、盗みや強盗もするワルとして地元では顔が知られた連中であった。弟から話を聞いたカルロスは激怒し、親父さんが所有している45口径の大型拳銃を隠し持って街の盛り場へ行った。そして2週間程、毎日二人のワルを探し回った。盛り場のワル仲間から恐喝した二人のワルに、若いヤツが居所を探しているから用心しろと話が伝わったらしく、どこにも見当たらなかった。
さらに2週間ほど過ぎても、全く彼らの所在は分からなかった。ある日の夕方、カルロスが一人でベランダで空手の練習をしていた時、休憩のためにベランダの手すりに寄って下の通りを見ていた。すると見覚えのある二人のワルの内の一人が歩いていた。カルロスは陸軍幼年学校の出身で、彼の部屋には22口径の訓練用の小銃が置いてあった。すぐに部屋から小銃を持ち出して、ベランダから約200m先を歩いて行くワルの背中に照準を当て、躊躇することなく狙撃した。急所は外れたらしく、ワルは肩を抑えて逃げて行った。小口径であった為にケガで済んだようだ。
翌日から再びカルロスは大型拳銃を持って、盛り場を巡って片割れを探しに行ったが、見つけることは出来なかった。次の日も日中から聞き込みをしに外出し、一旦、昼食時に家に戻った。家では親父さんがカルロスを待っていた。ワルの片割れが家に現れ、弟の件について謝ってきたと親父さんが言った。相棒が撃たれて入院した後、カルロスがもう一人を探していると言う話が仲間内に広がったからだ。「もうこの地区から出て行く、絶対にこの辺には寄り付かないから、これ以上あんたの息子に追い回さないように言ってくれ・・。」、と言われたそうだ。
穏やかに淡々と話すカルロスの話を聞いて本当に驚き、カルチャーショックを受けた。大学に入学したばっかりの好青年がそこまでやるか?、そこまでの覚悟があるのか?と、驚嘆した。一般人でも自分の身は自分で守ると言うか、当地では一線を越えるとトコトン、行くところまで行ってしまうと感じた。
3)徴兵制とゲリラ
コロンビアには松濤館流空手が広まっていた。メデジンのオリンピックスタジアムの体育館で教えている先生は地元出身の人で、カルロスから紹介されて何度か一緒に稽古に行ったことがある。基礎から一連の型や自由組手など、しっかりとした指導をしていた。
私は高校を卒業してから日本の実家近くの野天の道場(市場の屋上)で和道流空手を習った。かなり真剣に訓練したおかげで誰よりも早く初段の審査を受けさせてもらえた。その時、開祖の大塚博紀先生は存命中で80才であった。都内の会場で昇段試験を受ける多くの茶帯を締めた生徒を前にして、壇上で素早い体捌きを披露されたのが印象に残っている。
親しくなった高校生のエフラインも初めは松濤館流空手を習ったそうだが、お互いに自由なスタイルで組手を行っていた。彼と運動場で練習をしていた時、私よりも背が高く、体格のがっしりした一人の高校生が近づいてきた。エフラインの知り合いでハイメと言った。以前から空手に興味があったらしいが、実際に習ったことがなかったと言う。時々トレーニングをしている私達を見て、話をかけて来る気になったようだ。そしてトレーニングに参加する様になった。
エフラインは小柄で痩せており、体がしなやかで運動神経が良く、とても素早い動きをする。特に、遠い間合いから飛びこみざまに繰り出す横蹴りが絶品だ。ブルース・リーの様に、思いっきり伸ばした足の足刀で相手の腹に撃ち込む。躱わすのが難しく何度も食らったことがある。反対にハイメは理想的な体型をしているが、体が硬く、残念ながら運動神経は少し鈍い。とてもいい奴で、生真面目な性格のせいか、一生懸命トレーニングに精を出していた。
ある日、ハイメが別れの挨拶に来た。どこかへ引っ越しでもするのかと聞いたところ、コロンビアには徴兵制があり、陸軍に入隊することが決まったそうだ。当時の任期は2年間だった。(現在は1年半に短縮されたそうだ。)ハイメから聞いた生々しい軍隊での体験談は以下の通りだった。
卒業する前にハイメの高校へ軍人が来て、18才以上の生徒全員に入隊か免除か決めるクジを引かせた。残念ながら彼の引いたクジは入隊であった。裕福な家庭や政治家にコネのある連中は、違法であっても金を払って息子を免除にしてもらうと聞いたことがある。当時は徴兵に応じないと、国内ではまともに就職することが出来ないと言われていた。(今は罰金で済むらしい。)
彼は高校を卒業すると、新兵として約8ヶ月の訓練を受けてから国内の駐屯地へ配属されるが、どこへ行くかまだ決まっていなかった。当時は現在よりも反政府共産ゲリラは活発化していた。主にゲリラはコロンビア各地の熱帯雨林や山岳地帯に展開していた。時々、政府軍と激しい戦闘が起きることがあり、度々ニュースで報道されることがあった。
当時、メデジンに近い山中で建設中の発電所があった。そこに日本の電機メーカーから派遣された技術者達が数人働いていた。常時ガードマンや政府軍の警備が付いていたにも関わらず、ある日、山中の宿舎をゲリラに襲撃され、数人の日本人が拉致されてしまった。すぐにニュースが流れ、コロンビア政府は一切テロリストとの交渉はしないと報じられた。
数日経つと、人質は解放され、国外へ退去したというニュースが流れた。その数日後、実は日本の会社がゲリラに数億円の身代金を支払ったというニュースが流れた。そのニュースを見て私は総毛だった。コロンビアでは誘拐の対象となる人物は金持ちであり、会社の従業員などではない。会社が従業員のために身代金を払うことは無いからだ。しかし、今回は社長やオーナー家族ではなくとも、日本人であれば高額の身代金を得る事ができると言っている様なものだ。
事実、ある日本人の子供が学校の友人達から、お前を誘拐すれば1億円になると言われた。もちろんジュークのつもりで言ったのだが、身代金を支払った会社は在留している日本人の事を考慮せずに、さっさとゲリラと裏取引をしたことにとても腹が立った。
ゲリラの資金源は地方の農場主や牧場主等の裕福な家庭を狙った誘拐、恐喝、そして麻薬マフィアからのピンハネによって豊富な活動資金を得ていた。また、貧しい村から強制的に少年達を連行してゲリラ兵として洗脳し、訓練していたと言う。ゲリラの幹部達は国外に多額の財産を所有し、家族も安全な海外に住まわせているという話も聞いた事がある。要するに、過酷な戦場で戦っているゲリラ兵や、政府軍の兵士達は貧乏人同士で戦っており、金持ちは戦闘に参加していないことになる。
ハイメがどうしているのかすっかり忘れてしまった頃、ある日ヒョッコリ、いつもの運動場に顔を出した。軍隊に召集されてから既に2年経っていたのだ。以前に比べて顔は精悍になっており、また肩幅もガッチリと広くなっていた。彼に軍隊生活の話を聞いたところ、とんでもない目に会ったと言って、詳しい話を聞かせてもらえた。
彼は新兵の訓練が終了すると、コロンビアの南、エクアドルに隣接している県に派遣された。その県は熱帯雨林の茂った山と、遠くのアマゾン河に流れこむ大河がある。産業に乏しく貧しい県だ。ある日、ハイメが所属する小隊が山中をパトロールすることになった。この県は隠れた麻薬の生産地として有名で、麻薬マフィアや、資金源として地域を押さえているゲリラも多かった。
熱帯雨林のジャングルで覆われた山中の行軍は非常に不快で厳しく、パトロールの最終日には食料や水も乏しくなって、体力も限界近くに達してしまったらしい。小隊は約30名の兵士で編成され、陸軍大学出身者の若くて戦闘経験の無い少尉によって率いられていた。ハイメは小隊の誰よりも体格が大きいので、口径の一番大きなベルト給弾式の重い機関銃を抱え、常に小隊の先頭で行軍していた。夕方になってジャングルの木々の間から、開けた窪地に1軒の農家を見つけて注意深く斜面を降りて行った。
農家には誰も居なかったが、井戸水を飲む事ができた。その夜は久々に全員が疲れ切った体を屋根の下で休ませることが出来た。ここで小隊長が判断ミスを犯した。疲労のせいで気が緩み、見張りも置かずに全員が盆地の底にある農家で眠入ってしまったのだ。
夜明け前、漆黒の周囲の山の斜面から、突然、農家に向かって猛烈な銃声が浴びせられた。全員が応戦するも相手の居場所が分からず、パニックになった。ハイメは重い機関銃を抱えて外へ飛び出し、山の斜面に向かって給弾ベルトの弾が尽きるまで撃ち放った。気がつくと山からの銃声は止んでおり、周囲の山は再び静寂に包まれていた。ゲリラはヒットエンドランを仕掛け、既に誰も居なかった。少し経つと夜が明けてきて、小隊の被害状況が確認できた。数人が倒され、数人が怪我をしていた。ハイメは彼らを前にして慟哭している小隊長を見ていると、腕の痛みで怪我をしていることにようやく気が付いたそうだ。
私はゲリラは政治的な理念など無く、野盗と変わらない酷い連中と聞くが、どう思うかとハイメに聞いてみた。ハイメはゲリラだけが酷いのでは無く、政府軍も同じ様に酷い事をすると言った。一番の被害者は、ゲリラからも搾取され、政府軍からもゲリラのシンパと疑われて迫害を受ける、現地の貧しい住人達だと言った。いまだにハイメが体験談を語っていた時の悲しい目を忘れることは無い。