自動車整備を辞めた
20才で旅に出て、7ヶ月間の北、中、南米旅行が終わり、21才になって帰国してからの話。
出来るだけ早くFlacaに再会したいと思い、帰国して1週間後には職安(ハローワーク)で見つけた戸塚の自動車整備工場に就職した。オーナー夫婦と整備士2人を含めて4人しかいない小さな会社であった。私より一回り上の先輩がとても良くしてくれた。オーナーも優しい人で残業が無くても月10万円の給料をもらえた。職場の雰囲気は良く、働きやすい環境であった。しかしながら仕事は主にトラックや乗用車の車検整備が中心であって、これではエンジン修理や電装系修理などの実務経験を積むことが難しい。たとえ5年働いたとしても海外で働けるほどの技術力を得るのが難しいと思い、内心は鬱々とした日々を送っていた。
就職と同時にコロンビアの彼女との文通が始まった。現代のようにインターネットは無く、国際電話は高額で音声も良く聞き取れない。当時の国際的な連絡手段は郵便だった。速達にすると1週間で届くので、スペイン語の手紙を辞書を片手に書くのが結構大変であったが、手紙のやり取りがとても楽しみになった。アルゼンチンのメンドーサで知り合ったペルー人留学生3人や、大変お世話になったチリの一家とも何度か手紙のやり取りを行った。しかし、流石に全員にスペイン語の手紙を書くのがとても厳しいので、申し訳ないと思いながらコロンビアの彼女とだけ文通する事にした。
仕事には毎日バスで通っていたが、ある日、寝坊してしまい、家にあったスーパーカブで仕事へ向かった。仕事に十分間に合う時間であったが、途中、後輪がパンクしてしまった。突然のパンクに途方に暮れたが、ラッキーなことにY社オートバイ販売特約店がすぐ近くにあった。その店までパンクして重くなったカブを押して入ると、偶然にもオーナーは顔見知りであった。
旅行前にバイトした肉屋さんの前にある自転車屋さんのオーナーだった。兄弟二人で経営している小さな自転車屋さんと思っていたが、兄さんが社長で自転車店の2階に住んでおり、弟さんが店長としてオートバイ店を運営していたとは知らなかった。残念ながら、パンク修理は午後になると言われ、電話を借りて仕事先に事情を説明して遅刻する旨を伝えた。カブは仕事の帰りに受け取ることにした。
夕方、オートバイ店に入ると、ちょうどカブのパンクを修理している最中であった。直してもらっている間、世間話をしていると、私が海外旅行から帰ってきたばかりだと言うことを知っていた。肉屋さんの従業員から私の噂を聞いたらしい。今、何をしているのかと聞かれ、自動車整備工場で働いているが、車検整備では毎日がルーティン作業でつまらない。いつまで経っても一人前な修理技術者にはなれそうもないと愚痴った。話しているうちに、「早く一人前になって彼女の居るコロンビアに行きたい。」という思いまで話した。
すると、「それではオートバイ整備に転向した方が良いな」と、言われた。オートバイの方が自動車よりも壊れやすいので、いつもエンジンだけでなく、電装や事故車のフレームの修理などの分解整備は日常茶飯事だから、修理技術の習得期間が短くなる。と、言われた。最初は単なる普通のオートバイ店と思っていたが、店長の兄さんは若い頃オートバイメーカーのY社と専属契約していたプロのライダーだった。そして、店ではアマのオートバイレーサーの支援などを行っていた。その内の一人は、数年前にアメリカにメカニックとして移住したそうだ。
話を聞いて私の心は踊った。この店で雇ってもらえないかと直ぐに聞いてみた。店長は、見習いが辞めてしまったので雇えるが、まともに給料は出せないと言われた。今の仕事でいくらもらっているかと聞かれたので、正直に10万と答えた。「とてもじゃないけど、見習いにそんな金は出せないぞ。」と、言われた。そこでいくら払えるか聞くと、2万5千円から初め、仕事振りによっては上げると言われた。私は修理技術をなるべく早く習得したいという気持ちが強かったので喜んで了解した。
店長に、一人前のメカニックになるには何年かかるか聞くと、店長は、「俺は仕事を始めて5年経ってから、何でも一人で修理できるようになった。」と、言った。私は、その半分の期間で一人前になりたいと言うと、「なんでも教えてやるが、お前の努力次第だな。」と、言われた。コロンビアの彼女に約束した2年半で、絶対に一人前のオートバイメカニックになると決心した。翌日には自動車整備工場の社長に事情を話して、月末まで働いて辞めさせてもらった。
オートバイ店での初日、80CCのオートバイを通勤用に貸してもらえた。その日からオートバイに慣れ親しむと言う気持ちで、雨や雪が降ってもオートバイで通うことにした。翌朝から、8時に店を開けて店の前と店内を清掃し、そして店長が来るまでの間、展示されているオートバイを磨くのが日課になった。店長に、パンク修理や簡単な点検調整作業から習い始め、時々、故障車を軽トラで引き取りに行ったりと、多忙な毎日を送った。帰宅時にはメーカー発行の修理書を借りて、毎晩その日の仕事の復習と、翌日の仕事の内容を修理書で確認した。当時は早く一人前になろうと、毎日の業務に真剣に取り組んでいた。
父から、自動車整備工場の仕事はどうだと聞かれたので、「1ヶ月で辞めて、今はY社のオートバイ特約店で、見習いとして働いている。」と、返事した。「そうか、いくら貰っているんだ。」と聞かれ、「2万5千円」と答えた。父は驚いて「えっ、自動車整備では10万だっただろう?」、私は「そうだよ。でも修理技術を教わりながら、給料までもらえるのは助かるよ。」と答えた。父は、「何をやってるんだかと・」と、少しあきれていたが、それ以上は何も言わなかった。
半年も経つと、ようやくオートバイの各部の調整も出来るようになってきた。下取りしたオートバイを中古車として販売するためのレストアや事故車の修理も、少しずつ任せてもらえるようになった。事故で曲がったフレームを修理するために、全ての部品を外し、フレームだけを横浜の専門の業者で直してもらっていた。修理済みのフレームにパーツを組み付けて試運転を行い、オートバイから手を離しても直進するように各部の修正方法なども教わった。
この頃、私より若いH君が入社した。彼は高校生の頃からミニバイクレースを通じて、自分のバイクを整備したり改造してきた実務経験があった。仲の良い同僚になったが、内心ではライバルの出現により、日々の業務に一層努力をする事になった。そして1年が過ぎた頃には、待望のエンジンの分解修理も任せてもらえるようになった。2年目になって給料もすでに10万円に上げてもらえた。旅行費用を貯めたように、今回も徹底的に無駄使いを戒めて貯金に精を出した。
日常の修理業務に自信を持てるようになった頃、店長にそろそろ海外へ行きたいと話すと、どこへ行くんだと聞かれ、「ずーっと文通を続けているコロンビアの彼女の所へ行く」と、言った。すると、同席していた社長に、「コロンビア?どうせ行くんなら先進国へ行け」と、言われた。「先進国にはなんの伝手もないし・・」と、言ってから数日後、社長から「じきにY社の東京支社へ行くぞ。」と言われた。社長が昔プロのレーサーだったことから、メーカーにかなりのコネがあるらしく、私の事を東京の支社長に相談したそうだ。そしてカナダY社の社長が一時帰国した時に、私を紹介してもらえる事になった。
社長からカナダの社長が帰国したようだと告げられ、私は一張羅のスーツに着替えて、社長と二人で東京支社へ行った。東京の支社長室でカナダY社の日本人社長に紹介された。私の経歴や旅行した話など色々な話をして、海外で働きたい動機なども説明した。時折、同席していた社長も、私の働き振りなどを話して推薦してくれた。後日、履歴書を送付することになり、カナダY社がバックアップすると、約束してくれた。
初めての事故
カナダY社からの連絡を待つ間、通常通りオートバイ店で働いていた。ある日、足らない部品を購入しに他の特約店に行った帰り道、生まれて初めての事故に遭った。その日は、初秋の清々しく晴れた午後で、場所は見晴らしが良く、事故など起こりそうも無い真っ直ぐな道路であった。80CCのミニトレール車で直進していると、突然、衝撃を受けた。何が起きたのか分からないまま、一瞬で体は空中に投げ出され、路面に落ちて何度か横転してから止まった。
意識はあったが、胸が猛烈に痛くて息が詰まった。血の匂いがして細かな泡が徐々に口中に広がり、呼吸が出来ずに目を開けることもできなかった。エビのように丸まって、胸を押さえながらクルクルと何度か回転して、なんとか空気を吸おうとして口をパクパクと動かした。近くで何人かの人の声が聞こえた。「大丈夫か、直ぐに救急車が来るからしっかりしろ・・」と言われ、気持ちが少し落ちついた。
遠くから救急車のサイレンが近づいてきた頃、少しずつ細く空気を吸い込むことが出来るようになったが、体をエビのように丸めて胸の激痛に耐えていた。救急隊員に声を掛けられ、救急車に寝かせられてから、だいぶ気持が落ち着いてきた。小声で隊員に呼吸が困難と訴えたが、隊員からは「もう病院に着くから、大丈夫だ。」と言われて、その言葉で少し胸の痛みが和らいだように感じた。
ところが、それまで感じなかった激痛を左膝にも感じるようになった。あまりにも痛くて左足を動かすことが出来なかった。目だけを動かしてなんとか足を見ると、破けたツナギ服の膝の周辺が真っ赤に染まっていた。一瞬、膝が破壊されてもう歩けなくなるのかと思った。試しに左足の指を動かして見ると、スムーズに動く事を確認した。これなら足は大丈夫だと思いホッとした。
病院に着くとすぐに診療台に移され、ツナギ服を切り取られた。医者に呼吸困難を訴えるが、相手にされず、膝の周りに注射を打たれた。大きく裂けた膝の傷を消毒液とブラシでゴシゴシと洗われた。局部麻酔が効かないほどの激痛に呻いた。傷を縫ってもらっている間、胸を触ってみると、右の胸が大きく腫れており、ひどい凹凸で肋骨がバラバラになっているように感じた。痛み止めや化膿止めなどの注射を打たれてから、弾力帯を胸に巻かれた後、病室に運ばれた。入院は2週間程かかると言われ、全治1か月程度の怪我と診断された。
翌日、警察官が2名病室に現れて簡単な事情聴取を受けた。病院で保管されていた私の免許証を見ながら、目撃者の話を聞かせてくれた。私が走っていた直線道路の左側にT社の自動車ディーラーがあり、その入り口の手前の路肩にセールスマンの乗った車が一台駐車していたそうだ。その車が道路の反対側にあるガソリンスタンドへ、前方から来る車より先に横切って入ろうとしたらしい。どうも後方の安全確認を疎かにして、ハンドルを右に一杯に切ってから急発進したようだ。
車が発進した時、私のバイクはすでにこの車のフロントタイアの横を通り過ぎる寸前の位置に達しており、フロントバンパーが左膝にぶつかったようだ。私の視界の死角だったので、突然の衝撃の意味がわからなかったのだ。胸の肋骨が2本骨折したのは、どうもバイクのハンドルに胸を強打したようだ。以上の説明を受けて、ようやく私が自動車に衝突された事を知った。なお、私の体は対向車線へ8mくらい投げ飛ばされ、もう少しで前から来た車に轢かれるところだったそうだ。後日、私が被っていたヘルメットの後頭部は、路面で酷く削られていたのを見てゾッとした。
カナダ移住手続き
退院後、家で療養していた時、カナダY社からの連絡で、カナダ国内の特約販売店から私を雇いたいと言う希望があり、どうするか聞かれた。了承した旨を伝えると、労働条件やカナダの永住ビザを申請する為の必要な書類が送られてきた。必要な書類に記入してカナダ大使館に提出すると、領事面接を受ける日が決まった。
今もあまり変わらないと思うが、当時のカナダ移住は書類審査と領事面接を経て最後に健康診断の結果により判断された。申請者の年令、学歴、職業、就業経験年数、国家資格の有無、語学力、特技等、各項目にポイントが付けられる。その他、申請時のカナダ政府の必要としてしている職業リストに合致する人材であり、労働契約の有無、そして移住する市町村などが大きく影響していた。
領事面接は個室で行われ、英語ができなかったので通訳を付けてくれた。提出済みの書類を見ながら質問に答えて行った。すでにカナダ本国の移民局へ、雇用主となるY社ディーラーからも必要書類が提出されてあったので、スムーズに面接が進んだ。最後に趣味を聞かれたので、空手をしていると答えると、帯の色を聞かれた。「和道流空手の初段、黒帯です。」と答えたら、領事はとても驚き、特技として重要なポイントだと言って私の履歴書に書き加えてくれた。
後日、カナダ大使館から指定された病院で健康診断を受けるように言われた。胸のレントゲンに事故で内出血した部分の影が写っていたので、結核の検査を受けることになった。もちろん結果は問題なかったので、カナダ大使館から永住ビザを発給してもらえることになった。
ある日、国際移住事業団から家に電話が入った。横浜の根岸にある事業団の移住センターで実施している研修に参加しないかという誘いであった。私が依頼した訳でもなく不思議に思っていると、カナダ大使館から連絡が行ったらしい。国の補助金で行う1ヶ月のカナダ移住のための研修ということで、無料であった。1ヶ月間は他の移住者と寮生活をしながら、カナダの歴史、文化、社会、語学などの講習を受けた。カナダへの移住者は男4人、女3人の合計7人であったが、同じ時期にブラジルへの移住者は農業移民と工業移民の2グループに分かれていて、合計50名以上いたのには驚かされた。
私達の英語のクラスは英会話と英文法に別れていた。英会話の先生は横須賀の米海軍の司令官夫人と、将校夫人の二人から教わった。司令官夫人は日本人で、サンディエゴに長く住んでいたそうだ。ご主人が横須賀で定年した後は、サンディエゴに戻って老後を暮らすと言っていた。研修も終盤になり、英語クラスの生徒7人が、最後の土曜日に横須賀の基地へ招待された。
基地の正門から皆で一緒に入り、将校クラブのレストランで昼食をご馳走になった。基地内の施設はどこも広くて全くアメリカそのままであった。食後、将校クラブの一角にあったスロットルマシンで遊んだ後、司令官の邸宅でコーヒーとケーキをご馳走になった。基地内はとても広大で山の上の方に司令官の公邸が位置し、なんと東京湾と相模湾の両方が見えた。天気が良かったので相模湾の先に富士山もくっきりと見えた。とても眺望の素晴らしい邸宅であった。
最後の英語授業では、移住後の心構えなどを話してもらいながら、一人一人に気をつける点を注意してくれた。私の番になって、何を評して言われたのか分からないが、「君は大丈夫、どこでもやって行けるね。」と言われ、同時に高校の先生の言葉を思い出した。敢えて先生にどういう事か聞くと、私の性格や態度があまり日本人らしくないと感じたらしい。だから、外国人の中で働いても大丈夫と感じたそうだ。多分、旅の影響であまり人見知り、いや図々しくなったせいかも知れない。
カナダ到着
2年半が経ち、カナダの永住ビザが発給されてから故郷のオートバイ店を辞めた。日本での最後の正月を家族と過ごし、年が明けてからバンクーバーへ渡った。入管で永住ビザの確認を受けてからホテルに入り、翌日の便でメデジンに戻った。フラッカと再会し、2週間ほど、彼女の友人宅に泊めてもらった。残念ながら、すでにフラッカの親父さんは亡くなっていた。私は彼女にプロポーズをした。約束どおり戻ってきたことでフラッカの母親も反対しなかった。そこで、半年後の夏休みにメデジンで結婚することにして、私は真冬のトロントへ飛び立った。
2/2 へ続く
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