D.7 カナダ移住 (4/5)

D.雑記色々

労働条件の確認

リジャイナ着任後、オーナーのロンが出張から戻ると、挨拶をしてから私の労働条件について話をした。トロントのY社社長が電話で話した条件を確認したかったからだ。労働時間や休日などまったく問題がなく、8月末にコロンビアで結婚式を挙げるための20日間の特別休暇も取ることができた。ただ、時給はY社社長から聞いた金額より70セント近く低くなっていた。

それを指摘すると、急に表情を変え、「そんな金額を君に約束した覚えはない。Y社の社長ともそんな話はしなかった」「どこに証拠があるのか、書かれた書類があるのなら見せてみろ」と言い出した。それを聞いて、確信犯だと思った。内心ムッとしたが、私が世話になったY社の社長はすでに交代して日本に帰国しており、後任の社長は今までの経緯をほとんど認識していなかった。Y社の社員でもない私が、今さら泣きついてもしょうがないことだ。夏に結婚して妻がコロンビアから来るので、約束した時給を求めたが、「証拠を見せろ」の一点張りだった。

英語がたどたどしく、自分の意思を明確に伝えることは困難だった。それでもなんとかロンに対して、メカニックとしての能力を見せるから賃上げをしてもらいたいと伝えた。なんとか、秋に時給の件について調整することで合意したが、心の中ではロンの態度や言い方に不信感が拭えなかった。

トレール車の電装トラブル

5月になって積もっていた雪が消え、スノーモビルからオートバイのシーズンになるに従い、カナダでの生活に慣れてきた。仕事では、まだ修理経験が足りないことを自覚していたので、ワークオーダーの入った小箱から難しそうな仕事ばかりを選んでいた。反対にブライアンやフレディは、簡単な仕事ばかりをピックアップしているようだった。

ある日、かなり古いトレール車の電気系統の修理依頼を見つけた。日本で修行していた時は、電装系統のトラブルは皆無であったことから、電装系統の修理をしたことがなく、興味が湧いた。ワークオーダーには「エンジンはかかるが、バッテリーに充電せず、ヘッドライトも点灯しない」と書かれていた。点検前に試運転をしてみると、タンク下のフレームから火を吹いたので、慌ててボロ切れで消火した。自分のワークスペースで点検したが、原因を見つけることができなかった。どこから手を付けてよいかも分からなかった。

とりあえずスイッチなどを分解しても、異常は見つからなかった。閉店になると、英文マニュアルをアパートに持ち帰り、英語の辞書を片手に電装系統のページを読むことにした。しかし、電気配線図をどう理解してよいのか分からなかった。それまで電気テスターも使用したことがなかった。3日経ち、4日経っても分からないでいると、故郷のオートバイ店に何度も電話をしたくなった。そんな自分自身が情けなくなってきて、泣きそうになったが、なんとか思いとどまって英文マニュアルを読み続けた。

5日目になって、ようやく配線図を理解できるようになり、テスターの使い方も分かってきた。その結果、エンジンフレームに固定されている配線が、ヘッドライトに入る途中のヘッドチューブの位置で、数本、断線しているのを見つけた。ハンドルを左に大きく切ると、古く硬化した配線が引っ張られて切れたようだ。断線した箇所や、燃えた配線を交換して、最後に絶縁テープを巻いて修理を終えた。

ヘッドライトの電球や、充電用のダイオードとバッテリーも交換してエンジンをかけた。ヘッドライトが点灯し、バッテリーが充電されていることをテスターで確認できた。最後に試運転で路上を走っていると、自力で修理できた喜びや、大きな達成感が腹の底から湧き上がってきた。

大型バイクのエンジン異音

例によって難しそうなトラブルを探してワークオーダーをチェックしていると、Y社の4サイクル4気筒、1100ccのエンジンから異音がするという修理依頼を見つけた。日本で生産された大型バイクだが、輸出専用車として国内販売はされていなかった。試運転してみると、確かにエンジンから小さな打音が聞こえてきた。私にとって、初めて乗ったY社の一番大きなバイクであった。

自分のワークスペースに戻り、エンジンの異音を再度確認してみた。どうやらバルブタペットの間隙が少し大きいのではないかと思った。調整だけで済みそうな気もしたが、日本はもちろんカナダでも、なかなかチャンスの少ない、大型エンジンの分解修理をどうしても経験したかった。そこで、客にはピストンリングが膠着している懸念があるとして、エンジンオーバーホールを勧めた。

マネージャーのレイが見積書を作成して、客からすぐにOKをもらってきた。修理経験の浅い自分の腕を上げるための手段として、分解修理をするよう客を誘導したことに後ろめたさを感じた。同時に、孫子の行軍編、「糧は敵による…」という一文を思い出した。確か、遠征中の糧食は、敵から取りあげることで敵を弱め、そして自軍の大きな利益にするという意味だ。

重いオートバイのエンジンを、なんとか一人でフレームから木製の台に下ろした。サービスマニュアルを開き、バルブタペットの隙間を確認してから、手順に沿ってゆっくり分解していった。外したパーツは床に広げた新聞紙の上に並べ、バルブやピストン周りを重点的に点検した。ピストンリングは膠着していなかった。特に異常は見つからなかった。バルブとバルブシートのラッピングを行なった後、すべての部品を洗浄液で綺麗にした。ピストンリングセット、ガスケットやパッキン類、エンジンオイルとフィルター、プラグなどの消耗品を交換することにした。

夜は例によって辞書を片手にマニュアルを読んだ。モデルが変わっても、マニュアルの英文の単語や文章はほとんど変わらないことに気がついた。そして何度も読み返したおかげで、辞書が要らなくなった。翌日、洗浄して綺麗になった部品を慎重に、マニュアル通りに組み立てていった。ゆっくりと4日間かけてエンジンを修理した。試運転では異音が無くなり、お客も喜んでくれた。達成感を得ることができたが、後ろめたさは払拭できなかった。

その後、同じ大型バイクの異音トラブルが2台続いた。2台目も前回と同じような軽い打音だったが、今回もオーバーホールを勧めた。再び、慎重にマニュアルで確認しながら、ゆっくりと時間をかけて分解・組み立てを行った。

3台目は、かなりハッキリした異音が出ていた。今度は確かにピストンリングだと思った。すでに内部構造や作業手順を熟知していたので、マニュアルを必要とせず、エアーツールを使って一気にエンジンを分解した。ピストンリングを点検すると、一部がピストンの溝に埋まって膠着していた。プラスチック容器に入れた部品を、洗浄液でジャブジャブと洗い、エアーガンで乾燥させてから、ドンドン組み上げた。今までとは異なり、たったの2日で作業を終えることができた。これで大型バイクのエンジン修理に自信が持てるようになった。

その様子を傍から見ていたブライアンが声をかけてきた。「ヘイ、ジョージ」(この頃、カナダ人の同僚たちから英語名のあだ名で呼ばれていた)、「オートバイ修理の経験が2年半と言っていたのは嘘だろ!」と言ってきた。「本当だよ、日本で2年半しか経験がないぞ。だからなんだ。」「スゲー!俺は5年やってきたが、大型エンジンをそんなに早く分解・組み立てすることはできないぞ。」年上のドイツ系のブライアンの言葉に、少し嬉しくなった。そして、糧は敵によると呟いた。

真珠湾攻撃

12月7日の昼、いつものようにショールームの一角でスタッフ5人とお弁当を食べていた。食後、雑談を交わしていると、部品担当のベスが、「ジョージ、今日は何の日か知っている?」と聞いてきた。「知らない」と答えると、すかさず、「知らないの? バカな日本人が真珠湾を攻撃した記念日じゃないの」と、蔑んだように言った。

彼女の言葉を聞いた瞬間、私は顔色を変えて言い返した。「何がバカだ、ふざけんな。」「日本が戦ったおかげで、戦後アジアの多くの国が欧米の植民地から独立できたんだ。」「大体なんなんだ、普段、カナダ人はアメリカ人の悪口を言いながら、都合の良い時は自分たちはアメリカ人だ、とでも思っているのか?」「日本はアメリカに負けたが、他の国には負けていない。」「当時、日本とカナダだけで戦っていれば、ここは日本領になっていたはずだ。」早口でまくし立てると、シーンとして、誰も反論してくる者はいなかった。

オーナーとの確執

リジャイナに着いてから半年以上、夜間の英会話教室に通っていたおかげで、英会話が上達してきた。たまにブライアンに誘われてパーティに行った際、出身地を聞かれることが多かった。日本から来て7か月というと、皆一様に驚いた。どうやら、リジャイナ近辺の町で生まれたと思われていたようだ。日本人が他にいない職場でローカルの連中と話してきたから、自然と話す口調が彼らと同じようになったのだ。

夏の終わりにコロンビアへ行き結婚した。結婚したとはいえ、残念ながら妻のカナダのビザ取得には時間がかかるため、ハネムーンの後、一人でカナダに戻り、ビザの取得が済むまで離れ離れで暮らすことになった。カナダに戻ると、オートバイのシーズンが終わる前に、一番若かったメカニックのフレディが急に辞めてしまった。本人から直接話は聞けなかったが、ブライアンには「都会に疲れたから故郷の小さな町に戻る」と言っていたらしい。リジャイナが都会か?と少し驚いたが、住み慣れた田舎の方が彼にとっては幸せなのかもしれない。

スノーモビルのシーズンに入り、フレディの後任はなかなか見つからず、ブライアンと二人だけで忙しく働いた。そして、自分のメカニックとしての技量を分かってもらえたはずだと思い、クリスマス前に再び時給についてオーナーのロンと話をした。

ロンに昇給の件について話し始めると、露骨に嫌な顔をしてきた。そして「雪が降らずに、スノーモビルの販売台数が例年より低いのに昇給だと? 何考えてんだ」と、急に怒鳴られカチンときた。怒鳴り返そうと思ったが、努めて冷静に言い返した。「例年より降雪が遅くて、販売台数が少ないのは俺のせいじゃない。夏のオートバイの販売台数は良かったと聞いたし、ブライアンと二人だけでスノーモビルの準備や修理にも問題なく対処してきたはずだ。」そして、「秋に昇給の話をしようと約束したはずだ。」

年末の辞職

ロンは顔を真っ赤にして罵声を浴びせてきた。「なんだその態度は、嫌なら辞めろ」と言った。彼が怒ると逆に私は平静に、「態度が悪いのは、初めから喧嘩腰になったあんたじゃないか。俺はあんたのように汚い言葉を言った覚えはない。辞める話をしに来たのではないが、辞めろと言うなら辞めてやる。平気で嘘をついたり、約束を守れないあんたの下でこれ以上働く気はなくなった。出て行くから最後の給料を払え。」と言った。するとロンは席を立ち、「小切手は明日取りにきやがれ」と、真っ赤な顔をして怒鳴った。

フロントやショールームで働いていた従業員たちは、ロンの怒声や罵声を聞いて状況を理解したらしく、一様に驚いていた。修理スペースの自分の私物を整理している間、ブライアンが心配して事情を聞いてきた。親しくしていた彼には詳細を話した。彼に「いろいろと世話になった。ありがとう。また会おう」と礼を言った。アパートに戻る途中、K社販売店に寄った。そこで働いている香港出身の友人に、店を辞めたことを伝えると、オーナーが出てきて好条件で誘われた。すぐに仕事が見つかりそうで安心したが、返事は保留にした。

アパートに戻ると、トロントのY社に電話をして、新社長に仕事を辞めたことを伝えた。辞めた理由を詳細に説明すると、今後の身の振り方を聞かれた。リジャイナのK社販売店から誘われていることを話した。即座に、「Y社の推薦でカナダで働くようになったのだから、それだけは止めてくれ」と言われた。「わかりました。Y社の社員ではないですが、確かに大変お世話になったので、ライバル会社では働きません。」と返事した。

昼を食べてから、近くのスーパーで食材を買ってアパートに戻ると、電話が鳴った。Y社の社長からだった。ロンと話をしたそうで、彼は「景気が悪いのに昇給しろと言ってきた君の態度がとても不遜なので、クビにした」と言ったらしい。私はもう一度社長に今までの経緯を説明したが、私よりロンの言葉を信じたようだった。最後に「私の顔を立てて、冷静になってもう一度ロンと話をしてくれ」と言われた。社長の言葉に納得はいかなかったが、「明日、もう一度話をしてみます。」と約束した。

翌朝、ロンがいるのを確認して店内に入った。事務所に入ると、私の顔を見た途端、ロンはニヤニヤしながら「どうだ、Y社の社長から電話がいっただろ。俺の力がわかったら、さっさと働け」と言った。それを聞いて、「お前、何を勘違いしているんだ。俺は最後の給料を受け取りに来ただけだ」と冷たく言った。すると顔を真っ赤にして「何? 小切手は明日だ。お前はカナダではY社はおろか、この業界では絶対に働けないようにしてやるからな」と怒鳴った。

私は平然として、「なんだ、小切手を取りに来いと言っておきながら支度してないのか。明日は絶対に払えよな」と言って店を出た。私の背中に向かって「覚えていろよ、絶対に後悔させてやるからな」と、ロンは興奮しながら罵声を浴びせてきた。

アパートに戻ると、すぐにトロントから電話があった。Y社の社長だった。困った声で、「君、どうしたんだ? 今し方ロンが興奮して電話をかけてきた。仲直りしに行ったのではなかったのかね?」と言った。私はありのままを伝えた。「あんな態度をとる彼とは、もう働く気はまったくありません。Y社の手前、同業他社では働きませんから、安心してください。自動車修理でもしようと思います。」と、最後に謝意を伝えて電話を切った。

5/5に続く

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