プロローグ
「大学へ行きたいのか、働くのか?」。1972年、商業高校の3年になった頃、父親から進路について聞かれた。私は三人兄弟の末っ子で、兄と姉がいる。父は零細漁業者で、子供の頃の家はひどく貧しかった記憶がある。そのため、兄は中学を出た時から父の跡継として早くから働いていた。姉は小説家になりたいという夢があって大学へ進学したかったようであるが、すでに経済的な余裕があったにも関わらず、父は兄の手前進学を許さなかった。
私の番になって、どうするか聞かれたのである。私は進学する気は全くないと答えた。それでは就職するのかと聞かれ、働くのはいつでもできるから、若いうちにしかできないような世界旅行に行きたいと返事した。子供の頃から毎日海岸で遊び、海の先の外国はどんな所だろう。いつか実際に行ってみたいと思っていたからだ。
中学、高校時代は密かに無銭旅行(ヒッチハイカー)に憧れ、旅行記などを読むのが好きで、具体的なルートやプランなどを立てながら自分の旅を空想していた。もちろん旅行には金がかかるので働いて貯めるしかない。私が夢想していた旅行には2〜3年かかる。また帰国した時に職に困らないように何か技術を身につけたいと思っていた。
父は常日頃、姉や私に遺産は無いと言っていた。父が建てた家は兄と共同で働いて建てたので、全ての遺産は兄のものであると…。それには姉も私も全く異論がなかった。小さい頃から兄の仕事振りを見ていたので当然と思えた。
私にしてみれば貧しい家に生まれ、継ぐ遺産も無く、頭も良くない、ましてや特別な才能も無い人間に何ができるのか?反対に、金があって頭の良い人間なら、なんでも好きな事ができるのか?人は恵まれていても、できそうで、できない事があるはずだと考えた。
それは人生を自由に生きることでは無いかと思った。幸いにも末っ子なので、兄が家を継いで両親の面倒を見てくれる。よって私は好きな事を、好きな時に、好きなだけする自由な人生を送りたいと、父に伝えた。しかし将来の生活を考え、高校卒業後に職業訓練校に1年通って、自動車整備士になりたいと付け加えた。
当時見たアメリカ映画(ディズニー制作だったと思う)で、地方の自動車レースに出場するメカニックに憧れたという事もあるが、メカニックであれば旅行中でもアルバイトができる可能性があるかもしれないと考えた。また言葉がわからなくても世界中、どこでも働くことができる。儲からなくても食いはぐれのない職業だと思った。
父は少し驚いた様であったが、「好きにすれば良い、それがお前への遺産だ。」と許してくれた。ただ一つだけ条件を付けられた。「何をしても良いが、自分の名を汚すな」と。たぶん父は、自由奔放に生きようと思っていた私の心の奥底の、何か小さな危険な芽を感じて、釘を刺したのかも知れない。もちろん絶対に私の名も姓も汚さないと心に誓った。
高校の担任からも、進路について聞かれた。父親に話した内容をもう一度担任に言った。担任は進学すると思っていたらしいが、私の話に驚きもしなかった。お前なら何処で何をしようが大丈夫だと言われた。担任の頭には暴走族に入っていて、進路が決まらない同級生数人の事で頭が一杯の様であった。担任は横浜の郊外にある国立職業訓練校のパンフレットをくれた。
自動車整備科には1年課程と2年課程の二つのクラスがあったが、高校の新卒者が多い座学半年、実習半年の1年過程に入った。今まで一度も宿題を提出したことがないほど勉強嫌いだったが、この1年間は生まれて初めて一生懸命やって無事に卒業することできた。この頃は護身術として、家の近くにある空手の道場にも通った。ブルース・リー主演の「燃えよドラゴン」が大ヒットした頃だ。毎晩、食後に一人で海岸に行ってトレーニングにも頑張った。
訓練校の斡旋で卒業生の大半は大手自動車販売会社に就職した。私は自動車整備技術を習得するに都合が良いと思い、大手販売会社系列の自動車整備専門会社に就職した。当時の給料は安かったが仕事が忙しく、残業を毎日夜の10時頃までやらされた。残業手当が付いたので手取りで毎月10万円(2024年では20万円相当?)ほどになった。母には食費として毎月1万5千円ほど払った。残りは無駄使いを戒め、暑い夏の日でもコーラも飲まずに貯金した。
班長に、お前、彼女はいるのかと聞かれたことがある。毎日遅くまで働き、家に帰ると風呂に入って寝るだけの生活。さらに時々日曜出勤までやらされて、どうやって彼女を見つけるのかとブチ切れたことがある。高校から全く女っ気のない所にいたので彼女はいなかった。私の興味の対象は旅行にあった。就職してから1年半、ようやく手元に90万円の貯金が貯まった頃仕事を辞めた。短期間で当時としてはかなりの大金を貯金をすることが出来たと思う。彼女が居なかったのが幸いしたのかもしれない。
旅行雑誌や友人達からアメリカ行きの情報を仕入れ、パスポートは旅券事務所に出向き、アメリカの観光ビザも大使館の領事部に直接出向いて取得した。そして銀行口座を解約し、1ドル300円の固定レートでアメリカンエキスプレス社の旅行小切手1,000ドルと、ドル現金1,000ドルに換金した。
雑誌で知った渋谷の格安航空券取扱業社にて、羽田ーロスアンゼルス間往復の格安チケットを18万円で購入できた。片道航空券も調べてみたが往復よりも高かった。また、貧乏旅行の本で読んだ話では、片道では入国審査時に不法滞在を疑われ、入国を拒否される恐れがあるらしい。
1年間有効の帰りのチケットは旅行次第、何か起きればいつでも帰れる保険と同じように考えることにした。もしアメリカでバイトしてヨーロッパに行くようになれば、帰りのチケットは無駄にしても構わないと思った。手元に余ったお金でウキウキしながら旅装を整えた。
父も兄もそんな私の様子を見ながら、家から羽田までの行き方も知らず、ましてや英語も分からないのに大丈夫か?と心配していた。母は最初からこの旅行に反対していたが、いつまでも変わらない私の心に最後は諦めた。羽田に行く時は、家の前で涙ぐみながら「早く帰ってくるんだよ。」と、何度も懇願された。