A. 20才の秋、旅に出た。(2/16)北米編

A.20才の秋、旅に出た。

アメリカ合衆国上陸 (1975年9月29日)

家族の心配をよそに、羽田国際空港まで兄に送ってもらった。出国手続きに関しては、何度も雑誌や本を読んでいたので、難なく手続きを済ませて機内に入る事ができた。パンアメリカン航空の機内では隣の座席に座っていた日本人の男性と航空券の話になり、僕が買った帰路1年間有効の往復航空券の安さに驚いていた。

初めての飛行機に少し興奮してか、機内ではほとんど眠れなかった。腕時計の日本時間では午前6時13分。生まれて初めて乗った飛行機が米本土に近づき高度を下げ始めた。小さな窓から見えた景色は、広大な赤黒い山肌に整然と広がる畑、その間を白い道路が何本も走っているのが印象的だ。明らかに羽田を出た時に見た東京湾周辺の景色とは違う。アメリカだ。ロスアンゼルスだ。ついに来た。

10/2 アンディと会う

心配していたイミグレーションも、パスポートと帰国の切符を見せながら簡単な質問に答えて無事に入国できた。荷物を受け取り出口の扉を出ると、ロスアンゼルスの空港内は出迎えの人でごった返していた。

インド系の新興宗教だろうか?片手に何冊も彼らの宗教本を抱え、募金を募っている黄色いゆったりした服を着た白人グループが目立った。空港には台湾出身のアンディと彼の友人であるミツルが出迎えてくれた。そしてアンディのアパートに三日間泊めてもらった。

彼は僕が自動車修理会社を辞めた後、少しお金が足らないのでバイトをしたことがある肉屋の娘さんの婚約者だ。留学中の娘さんが一時帰国した際に話をしたところ、彼に僕の面倒を見てもらえるよう頼んでくれた。彼は日本人とまったく変わらない完璧な日本語を話す。そして英語もアメリカ人並みで優秀な大学生だ。

翌朝、アンディが朝御飯を作ってくれた。コーヒーとトースト、それに炒り卵?よく見ると刻んだトマトが一緒に入っていた。ビックリした。卵とトマトを一緒に調理した料理を初めて見た。アンディは「台湾もアメリカでも普通だよ。」と言って、「日本の甘い卵焼きの方がビックリするよ。」と言った。要するにトマトはフルーツではなく野菜だと理解した。

朝食後、アンディが勉強しに行ったので僕も外出した。アンディのアパートから歩いて行ける小規模なショッピングモールへ行き、スケッチブックとボールペンを1.28ドルで買った。ちなみに1ドルは300円の固定レートだ。しかし、実際にアメリカでドルを使ってみると、1ドルは100円の感覚だった。

モールの一角に映画館を見つけた。平日でほとんど客のいない昼間に1.5ドルの2本立ての映画を見てきた。モールでは片言の英語でも通じたので、これから旅行をするのにほんの少し自信がついた。

大きな通りを歩いていると、街の所々に巨大な星条旗が翻っているのが少し奇異な感じを受けた。日本ではこんな大きな国旗を見かける事はない。多民族国家のアメリカは、国旗で国民の帰属意識を高める必要があるのだろう。やはり移民の国だからだ。空の色も日本とは違う。カリフォルニアの空は青く広く、宇宙まで抜けるような蒼い空だ。蒼穹と言う言葉がぴったりだ。

アンディが戻ると一緒に夕飯を食べた。夕食後、彼の友人宅の集まりに同行することになった。まだ明るい夕暮れの街を、アンディの運転する銀色の古いコルベットスティングレーの隣に乗り、大排気量エンジン特有の低音サウンドを響かせながら、郊外の山手にある高級住宅街の緩やかな斜面を登って行った。

彼の友人は金持ちの日本人留学生で、白いフカフカのカーペットが敷かれた広いリビングのある一軒家に住んでいた。居間には数人の日本人留学生が居た。うち一人は女性だった。リビングの低いテーブルを囲み、カーペットに皆で胡座をかいて座った。

ビールを飲みながら雑談をしていると、アンディと僕を除いた連中がマリファナを吸い出した。スポーツマンのアンディは僕と同じでタバコも吸わない。彼らの話を聞いていると退屈で、内容にも興味が湧かなかった。日本人同士とはいえ雰囲気がかなり異なる。僕は場違いのところにいる様に感じた。留学生として一生懸命頑張っているような人達ではないようだ。いや、一生懸命に努力する必要がないのかも知れない。別に彼らを羨ましいとも思わなかった。

4日目、アンディと一緒にロスのダウンタウンにあるグレイハウンドのバスターミナルへ行き、1ヶ月間有効の全米周遊クーポン券を買った。99ドルだった。アメリカ国内を移動するのに一番安い交通手段だ。スケジュール表の見方やクーポン券の使い方を教わってから、早速バスターミナルに近いホテルに送ってもらった。本当はバス旅行ではなく、中古のオートバイを買ってアメリカ大陸を走りたかったのだ。この事をアンディと会った初日に相談したところ、無謀だと言われ一蹴された。

生まれて初めて泊まったダウンタウンのホテルは、クラークホテルといって少し古臭いが、部屋も広くて小奇麗なところだ。1泊10ドルもしなかった。バスルームで昼間着たシャツや下着類の洗濯をして、熱いシャワーを浴びてさっぱりしてから大きなダブルベッドへ入った。洗濯物は空気が乾燥しているので、朝までには乾く。まだ時差ボケが取れていないのと、明日からの一人旅がちょっと不安でもあり、なかなか寝つけなかった。

10/3  金 快晴 グレイハウンドバスに乗る

ヨセミテ国立公園へ行きたかったので、さっそくグレイハウンドのターミナルからフレズノ行きのバスに乗った。フレズノのバスステーションに着いて分かったのだが、ヨセミテ行きのバスはすでに運休していた。すでに山は雪が積もりオフシーズンに入っていたのだ。急遽予定を変更してサンフランシスコまで行くことにした。一人旅で旅程も決まっておらず、宿の予約もないので臨機応変に行き先の変更は簡単に決められた。

バスを待っている間、パスポートを取得した時の事を思い出した。パスポートは旅行代理店で申請する人が多かったが、僕は手数料をケチって関内にある旅券事務所へ出向いた。小さな古い事務所で記入した申請用紙と書類一式を提出した。渡航目的を観光としたが、渋い顔をした窓口の人に旅程も提出しろと言われた。無計画であったが、その場で適当に日程を書いて渡し、いくつかの質問に答えて手続きを完了した。

当時は海外旅行と言えばJALのパックツアーが全盛で、個人旅行は少数派であった。そして海外では日本赤軍が活動していた事もあり、若者の個人旅行は当局から警戒されていたようだ。

リュックをサンフランシスコ行きのバスの荷物室に入れてもらい席に着いた。昨晩、ホテルではよく寝むれなかったが、通り過ぎる外の景色を見ながら考えた。昔、もしアメリカ人のかわりに日本人が北米大陸を開拓しようとしたら、この広大な土地を開拓しきれただろうか?北海道でさえ、明治になってようやく開拓がはじまったばかりだ。日本人だったら出来なかったかも知れない。単調な景色を見ながらそんなことを思っているうちにいつの間にかぐっすり眠ってしまった。

昨夕、到着したサンフランシスコのバスターミナルから、日本で買ってきた世界旅行地図を片手にYM CAを目指して歩きはじめた。人通りが少ない裏通りを歩いているうちに、日が暮れ出してあたりが薄暗くなってきた。段々と心細くなってきたところでYMCAが見つかりホッとした。1泊6ドルだった。しかし、すでにYMCA内のカフェテリアは閉まっていた。

腹が空いたので部屋に荷物を置いて再び通りに出てみるが、すっかり暗くなってしまい、ほとんど商店やレストランが見当たらなかった。食べる物を探しにYMCAの向かいに開いていた小さな雑貨店に入った。りんご2個、ピーチ2個と1.25ドルのビタミンD入りミルクが買えた。小さな部屋に戻ると備えつけの小机の上に買ってきた商品の入った紙袋を置いて、飾りも何も無い壁に向かって黙々と食べた。りんごもピーチも固くて汁気もなく、とてもまずかった。

食べている間、急に侘しさが腹の底から沸いてきて、自分自身が情けなくなってきた。言葉はまったく通じないし、広すぎて興味のあった観光地へも思うように行けない。「なぜこんなところへ一人で来たのか、こんな筈ではなかった・・・」、自問自答しながら早くも日本が恋しくなってきた。

食事がすんだ後、ベッドの上で横になり、落ち込んだ気持ちを「まあ、何とかなるさ・・」と、強いて言葉に出して楽天的な気持ちに切り替えた。今日、ちょっとだけうれしかったのは、バスの中で金髪の小学生の女の子に折鶴を教えてあげたことだ。そんなことを思い出しながらいつの間にか眠ってしまった。

タイトルとURLをコピーしました