2,000年1月成田発
出発にあたって旅行代理店のサービスで実家の駅からの乗車券と、成田エキスプレスの切符を手配してくれた。また荷物も前日にJAL の入っている第2空港ビルまで運んでくれたので楽だった。スーツケースは一人当たり無料で二個まで持っていけた。重量も一個当たり30kgまで認められた。両親が空港までわざわざ送ってくれたのがうれしかった。後日電話で聞いたら帰宅したのがかなり遅くなってしまったようだ。
今回はアルゼンチンのマルデルプラタ市にある国立水産開発研究所にて、マダイとヒラメの種苗生産開発プロジェクトに、コーディネーターとして参加することになった。もちろん、コーディネーターをするのも初めてであり、養殖関連の案件に参加することも初めての事だ。大手民間企業から出向してきたリーダーのODさんと、日本の栽培漁業協会から出向してきた海水魚種苗生産開発の専門家であるOさんと3人でチームを組んだ。
所属先の財団から金曜の午後遅く現金で高額の業務費を渡されたが、空港で旅行小切手に全額交換できた。空港では銀行が毎日営業しているので助かった。交換レートは1ドルが¥106.40であったが、1%の手数料がチャージされた。領収書を大事に保管した。
フライトは1月9日、日曜日の夕刻6時50分成田発、ニューヨーク経由サンパウロ行きのJALビジネスクラスだった。サンパウロに着くとアルゼンチン航空に乗り換え、ブエノスアイレスへ到着した。荷物は日本からブエノスアイレスまでスルーで行くので手間が掛からなかった。
ニューヨークの空港では待合室で一時間ほど待たされた。サンパウロまでの飛行時間は23.5時間かかった。強行軍であったが予想以上に快適な旅であった。機内はブラジルへ戻る日系人と企業関係者が多かった。サンパウロでは乗り換えのために案内人が待っており、ビジネスクラスのラウンジまで連れて行ってくれた。
清潔なラウンジで休んでいると、アルゼンチン航空の係りが来て搭乗手続きをしてくれた。アルゼンチン航空のビジネスクラスは少し窮屈であった。飛行機が古いだけでなくスチュワーデスもオバサンで、JAL のブラジル人のかわいいネエちゃんとは大違いであった。
25年振りのアルゼンチンという感傷もなく、ブエノスアイレスのイミグレーションはあっけないほど簡単にすんだが、税関では僕らの荷物が多いためか荷物検査を受けた。所持金は業務費と個人の金を合わせると結構大金になるのでちょっと気になったが、新品のコンピュータについて少し神経質に質問を受けただけであった。技術協力で来て仕事に使うために買ってきたということで納得してくれた。
係官はOD さんのスーツケースをひとつだけ開けて簡単に検査して、新品のソフトについて質問を受けただけでオーケーであった。ポーターがしつこくついてきたので、夫人同伴のOさんの多めの荷物を運んでもらったが、5ドルほど払っただけで済んだ。この辺は去年まで居たドミニカ共和国と違いスマートだ。ドミニカのポーターだったらこれじゃ安いのなんのと騒ぎ出す。
空港では財団のリポーターをしているKさんのところの従業員が迎えに出てくれた。彼の車とタクシーで我々一同をホテルまで連れて行ってくれた。飛行場から中心街(セントロ)まで30分ほどかかるが、片道が4車線もある高速道路が整備されていた。しかし町並みは古臭くて陰気臭い。なんとなくメキシコシティやボゴタのイメージとダブル。
ホテルにチェックインした後すぐKさんの事務所に行き挨拶をする。紺のスーツを着た年配の紳士であったが、赤い靴下がキザでまたどことなくルーズで、そして何となくアンバランスだ。私には何ともいえない懐かしい雰囲気が感じられた。昼はKさんに日本食をご馳走になる。その日のうちに農牧水食庁の水産次官のLOUBET氏に着任の挨拶に行った。コロンビアで話すスペイン語とイントネーションが違う。アルゼンチンでは抑揚が強く、歌っているような感じだ。
ブエノスのホテルは4星のCONTE HOTEL 、住所はCARLOSPELLEGRINI 101、1泊120ドルと少々高かったが、まあよいホテルであった。夜は皆で近くのレストランへ行き、ワインを飲んで分厚いステーキを食べた。
火曜日は日本大使館の1等書記官に着任の挨拶をし、その後で協力事業団の事務所へも着任の挨拶に行った。昼飯はラプラタ川のヨットハーバーの洒落たイタリアンレストランで食べる。その夜は自由行動として映画を一人で見に行った。夕飯はハンバーガーを食べて、少し遅くなったが道を適当に迷いながらホテルに帰る。
途中、電話局が在ったのでまだドミニカに子供たちと一緒に居る妻に電話する。国際電話をホテルからすると非常に高いので、LOCUTORIO と大きく書かれた緑色の看板がでている電話局からだと安くかけられた。国際電話は先ず00を回してから国番号を回し、0を抜かした市外局番をまわして電話番号を回せばすぐつながった。電話ボックスの中にデジタルのカウンターがあって料金がわかる仕組みになっていた。
13日水曜日、タクシーで国内線の空港に行く、各人荷物が多いのでタクシーを一台ずつ雇った。私は料金の13ペソに1ペソのチップを払ったが、他の運転手は正規料金は料金所代を含んで14ペソだと言っていたらしい。ブエノスのタクシーはメーター制でチップはいらない。ちなみに現在は1ドルが1ペソである。初乗りが1.2ペソと安く安心して乗れた。
市街地の通りは番号ではなく、ドミニカのサントドミンゴと同じで、すべて名前が付いているため慣れないと大変だ。コロンビアのようにCALLE とCARRERA の番号、そして大きな通りだけ名前がついている方が(ニューヨークのストリートとアヴェニューと同じ)非常にわかりやすく頭のよいやり方である。
国内線もビジネスをとってくれたので、荷物が多くても追加料金もなくオーケーだった。飛行機に乗るためバスに乗り込み全員が乗るまで15分ほどまたされた。いざ飛行機に向かって走ると思ったら、たかだか30メートル程先に止まっている飛行機のタラップに移動しただけであった。ちょうど建物と飛行機の間に車両がとおる専用の通路があって、乗客の安全のためにこのようなことをしているようだ。
それにしてもバスはエンジンをかけっ放しで燃料と時間の無駄、そして環境汚染をも考慮せず非常に効率の悪いことに驚かされた。要するに空港建物の設計が悪いのだ。マルデルプラタはブエノスアイレスから飛行機で南西へ500km程離れているだけだ。空港にはカウンターパートの一人であるエディが迎えに出てくれた。初対面だが感じのよいやつである。
私の友人で、以前ここの協力事業団のプロジェクトに派遣されていたM 君と仲が良かったらしい。アルゼンチン人は生意気な奴が多いと思っていたのだが、気マジメな奴が多いのでちょと拍子抜けする。しかし方言というか、ここの言い回しがわからない事があって、ドミニカやコロンビアみたいに調子よく話すようにはいかない。
セントロの両替屋でドル紙幣や旅行小切手等が簡単にペソに交換できた。アルゼンチンペソとドルの両建てであることから、ドル現金は直接使用できるところが多い。それでもペソでないとダメと言うところも結構あった。トラベラーズチェックはホテルでも嫌がるところがあるので、支払うときは現金ドルかペソを用意しておく必要がある。トラベラーズチェックは両替屋で1ドルに対して0.987ペソで交換された。
会計業務
市中銀行に当座預金を開設しようとしたが、政府の規制が厳しく国内の資産等を証明する必要があり、外国人には事実上小切手を使える当座預金口座を開くのは無理であると言われた。釈然としないが言い合ってもしょうがないので、普通預金口座を開いて業務費を14,000ペソほど預金した。
口座はパスポートと赴任先の国立水産開発研究所の総務部長の紹介状を見せ、OD さんと私の二人の名義にした。支店長に当座預金口座が開けない理由を文書で貰いたいと頼んでおいたが、いつまで経っても連絡が無くい。次回は、カウンターパートのガリエルに電話で催促してもらう事にする。
コーディネーターの業務はプロジェクトの進捗をサポートする業務であるが、メインは業務費の管理である。日本でもらって来た財団の会計ソフトは良くできている。しかし慣れの問題であろうが、いまいちわからないところがあってちょっと不安であった。どうにかこうにか1月分の月次報告書を作成し、フロッピーにコピーをして31日の月曜日に東京に送ることにする。出発する前にもうちょっと具体的な練習をする日数が欲しかった。
養殖研究所プロジェクト
ある土曜日にエディを誘って、皆で彼らが計画している将来のプロジェクトサイトを見に行ってきた。街から20キロほど南に位置し、道路わきで電気や水道等は問題なさそうであるが、昔あった遊戯施設か何かの廃屋で荒涼としているところだ。草もほとんど生えてなく、茶色い土がむき出しており不気味なところだった。
エディの話では、ここは市の所有地であるから無償で手に入り、廃屋の基礎もしっかりしているのでそのまま利用できて建設費が安くあがると言っていた。しかしそれでは設計の段階から条件的に縛られることになり、自由なレイアウトができなくなることなので結果的には高くつきそうだ。
また海に面しているとはいえ外海に直接さらされていて波が荒く、海水に崖の土の微粒子が混ざって茶色い。この辺はどこも海水の色は同じで微粒子を取り除くためには沈殿させる必要があると言う。民間企業から出向しているODさんの意見では、それにしてもここの地形は養殖場としては取水するのに致命的な問題があり、民間の業者では手を出さないところだと言っていた。
なにか頭の痛い話だ。根本的に考え直さなければいけないようだ。次の日、スケールダウンしたプロジェクトの計画を持ちかけた。最少のリスクで大きな効果を上げるべく、場所はヒラメの親魚水槽を作る予定をしている研究所に隣接した海軍の駐車上が良さそうだ。かなり広いので全部は必要なく3分の1程度あればじゅうぶんだ。現在は全く使用されていないスペースなので可能性は無きにしもあらず。
更地なので養殖に適した自由な設計ができる。また研究所から電気、水道、電話等簡単に引ける。ラボラトリーとのやりとりも容易であるので建設資金や運営資金も安くあがる。規模が小さくても大量生産方式で種苗を作り、一部を商品サイズまで育成して残りを放流して広報に利用する。一連の活動のなかでデータを収集し技術移転を行い、アルゼンチン政府や民間の業者にインパクトを与える。
これが成功すれば、このプロジェクトを元にアルゼンチン政府にエディのやりたがっているオリジナルのプランのような、野心的な養殖プロジェクトを要請することができる。O さんとOD さんと三人で協議しながら構想を練った。
規模はタイ、ヒラメ2種類を対象に3万匹とする。このうちの20%を500gから1キロ程度まで育て上げる。しかしここのラボラトリーも取水がネックになっていた。取水口は初めから作られていない。船で沖の清浄な海水を汲んでくるらしい。その理由は海岸線に沿って、土が波で削られて微粒子が海水に混入してコーヒーミルク色に濁っているためであろう。
しかしお話にならない。どこかのいい加減なコンサルの設計だということがよくわかる。INIDEPの建物の設計も稚拙で使い勝手が悪く、海水の配管系統の設計や工事の仕方もいいかげんだ。海水が十分に使えないことから、養殖ラボラトリーでは水族館みたいに海水をフィルターにかけて循環させるシステムを採用している。
O さんの話ではこれはこれで非常に努力しており、循環システムで人工採卵したケースは少ないので、資料をまとめて論文を発表する価値があるということだ。新しいヒラメの親魚水槽を作るだけでも海水の使用量が増えるので、海水の取水方法を根本的に改善する必要がある。
海水の濁りを考慮すれば、井戸を掘るのがよいと思う。又は、岸壁の外壁に頑丈な取水専用の囲いを作ることも良さそうだ。この場合はサンドフィルターの容量が結構大きいものが必要になるだろう。O さんにリザーブタンクの沈殿物の検査してもらったところ、現在のサンドフィルターはプール用だが十分機能しているようだ。グラフをみると50ミクロン以上の大きな物体は非常に少なく、キチンと濾過されていた。