2005年9月1日に妻がコロンビアからアルゼンチンに戻ってからというものは、気楽で好き勝手をしていた独身貴族みたいな世界から、飲みたいものも飲めず食いたい物も食えない、苦行の世界に引き戻された。でもそのわりには相変わらず太っている。
東京から来た娘はコロンビアの滞在も終わり、そして無事にアルゼンチンに着いたが、あっという間に娘の夏休みは終わって9月24日に日本に戻った。帰国した彼女はまだなかなか時差ボケが抜けきらないで、毎日早起きしているようだ。健康のためにはこのまま早起き癖がつけばよいのだろうが、じきに夜更かしに戻ることだろう。
娘が当地に滞在中そして新任の専門家が着任する前に、アルゼンチン北西部に位置するサルタへ家族三人で旅行した。なかなか趣のあるところなのでこの文章には写真を何枚か添えることにした。
アルゼンチンの北西に位置するサルタまで、ブエノスアイレスから飛行機で約2時間のフライトだった。現地のホテルで小型車を借りて北上し、フフイを過ぎてプルナマルカ村へ行った。この村は、岩肌が虹のような色合いをしていることで有名だ。あのフォルクローレの有名な「花祭り」で歌われたウマワカ村の近くにある。ちなみに歌のオリジナルの名前は花祭りではなく、「ウマワカの人」= EL HUMAHUAQUEÑO という意味だ。
高地なので気候は非常に乾燥しており、空は晴れて天気はよかったが寒波でとても寒かった。私たちは暑いものだとばかり思っていた。ほとんど夏の支度しかしてこなかったので、日が暮れると外は寒くて震えあがった。
村で食べたサルタ地方の郷土料理を紹介する。ひき肉の詰まった熱々のエンパナーダと、トウモロコシ、野菜、肉の煮込み料理のロクロ、そして手打ちスパゲッティの上にのったトマトソース煮の鶏肉の塊。安くて見た目よりもあっさりした味付けで予想外においしかった。
プルナマルカ村の脇の路上にて、妻と一緒に記念写真をとることにした。バックの山の色の変化が面白く、雲ひとつなく快晴の空で気持ちがよかった。ただかなりの高地で紫外線が非常に強いところなのでサングラスは必携だ。
サルタ市から南西へようやく車が一台通れるような、狭くてガタガタで、クネクネしている砂利だらけの峡谷の未舗装路を走った。砂埃を巻き上げながら山の上へ上へと、まるで空を目指すようにして3時間半。開けた台地に出てようやく砂漠のオアシスのようなカチという村の入り口に着いた。遠くには雪をかぶったアンデスが見える風光明媚なところだ。
ここは私たちが泊まった村はずれにあるコロニアル調のとても風情のある小さな宿だ。シーズン中はかなり混むそうだが、私たちが行った時はシーズンオフだったので、他に3 グループ、8 人くらいしかいなかった。
宿の二階のバルコニーからは雪を被ったアンデスの峰が望めた。空気が澄んでいてとてもよく見渡せた。この時ひとり佇んで景色を見ていたが、日常の喧騒から隔離されている不思議な空間だった。
カチを出てカファジャテに向かう途中の陸橋、下は干上がった川だ。水が流れることがないような感じのする乾燥した土地だ。山の奥地のこんなところにも人が住み、荒れて乾燥した土地で畑を耕し、羊を飼って生活している人々がいる。
荒地の真ん中にある比較的大きな村の、小さな教会、情緒のある場所だった。サルタ地方は信仰心が深く、村ごとにこのような教会が多く建っている。後で偶然に知ったのだが、ある有名なアルゼンチンの画家がこの写真と同じ教会の風景を描いていた。
4 泊5 日の小旅行では、時間が足らなかった。サルタを楽しむには車を借りて、最低でも7 日くら
い滞在しないとエンジョイできない。サルタ地方は原住民のインディオと混血した人が多く、ボリビ
ア人も多く移住しているようで彼らの目や髪の毛の色は濃く、私が住んでいるヨーロッパ的なマル
デルプラタとは自然も人種も文化も違う。まったく別の国に居る様だった。
村から村を結ぶ乾燥しきった田舎道の途中で、庭の木陰で一家が手作りの機で布を織っていた。この家族の老人が織った一枚のテーブルクロスを買った。知る人ぞ知る彼は、前パウロ教皇にアルゼンチンから贈られた当地名産の外套を織り上げた名人だった。これからはこれを見るたびにサルタの山奥の村々を思い出すことだろう。
今回は自動車ラリーのようなアドベンチャー旅行でとても楽しかった。いつかもっと時間をかけて再訪したいと思った場所の一つだ。