車の買い換え
メデジンでの結婚式を終えて一人でリジャイナに戻ってきてから、妻に国際電話をかける回数が増えた。毎月、500ドル近く徴収される高額な電話料金のため、貯金が目に見えて減ってきた。ロンと喧嘩別れをする前、新聞に中古車欄でDATSUN-510、 日本名ブルーバードが売られているのを見つけた。1970年にケニア/ウガンダ間で実施された、第18回サファリラリーで優勝した箱型モデルの4ドアセダンだ。
少し年式が古かったが、試乗させてもらうとエンジンの調子がとても良かった。例年よりも雪の降るのが遅かったが、すでにスノータイアを履いていた。価格も安く、雪が降る前に手に入れるにはちょうど良かった。少なくなってきた貯金をカバーするため、今まで乗っていたセリカを売ることにした。新聞の中古車売買欄にデータを掲載すると、あっけなく購入希望者が見つかり買った時と同じ金額で売れた。
再就職
流石にノンビリとしている訳にもいかない。新聞の求人欄で職探しをしてみると、バンクーバーの自動車修理工場がメカニックを募集していた。電話したところ、偶然にもオーナーは日本人だった。時給はオートバイのメカニックよりも高くなるので即決した。オーナーの日本人の友人が貸している下宿先も紹介してもらった。すぐに入居できるということで新年早々に引っ越すことにした。
クリスマスは親しくなった日本人の友人達と過ごした。既婚者のA氏はすでに、雪が降る前にバンクーバーに移転していた。彼の同僚だったヒゲモジャのD氏も、雪が溶ける頃には西隣のアルバータ州、カルガリーに引っ越して、大学に通う計画があると言っていた。台湾出身のOさんがポツリと、「皆、出て行くんだな・・」と、寂しそうな顔をしていたのが印象的だった。
真冬の出発
年が明け、ブルーバードにすべての家財道具を積み込むと、助手席まで荷物で一杯になった。なんとか整理して前後左右の視界を確保することが出来た。地図で調べると、リジャイナからバンクーバーまで国道1号線で1,727Kmあった。カナディアンロッキー山脈を超えるルートだ。できれば綺麗な景色を見ながら真夏に行きたいルートだが、真冬でも通行が可能だった。リジャイナからカルガリーまではほぼ平坦な道路だ。カルガリーを出てバンフ国立公園に向かう途中から上りになる。友人達から、真冬なので4泊以上するくらいの余裕を持てと忠告されたが、旅費をケチってなるべく最短日数で行くことにした。後から思えば、真冬のロッキーに小型乗用車で山越えをするのはあまりにも無謀だと、思い知らされることになった。
冬季のカナダのテレビでは毎日数回、真冬のロングドライブの際の車の故障時に備えて、必ず十分な量の大きめなローソクと、ライターを持参するように呼びかけていた。なんらかの故障で車中泊になってしまった時にエンジンを止め、窓を約1cmほど開けて車内で1本のローソクを灯すだけで、凍死を防げるという。また、防寒着や寝袋、毛布はもちろん、高カロリーのチョコレートやビスケット、飲料水も車内に備えるように勧めていた。これが現実とならないように祈るしかなかった。
1月3日の早朝、まだ暗い駐車場でいつものように車のエンジンを暖気しながら、すべての窓ガラスの氷をスクレーパーで丁寧に掻き落とした。真冬とはいえトランスカナダハイウェイは毎日除雪され、岩塩が撒かれているから、スノータイアでごく普通に走行できる。カナダ人の友人達からも聞いていたので不安はなかった。今日は、759キロ先のカルガリーで宿泊する予定として、住み慣れたリジャイナを出発した。
アルバータ州カルガリーの思い出
カルガリーに行くのは二度目だ。当時は石油景気で人口が増えていた。石油関連会社が集まったおかげで、オフィスビルが林立した都会の雰囲気が強かった。それでも昔から牧場が多いところで、7月には大規模なロデオが開催されるので有名な街だ。カルガリーに向かって雪中のハイウェイを走りながら、夏に美容師さん達と車で、初めて遊びに行った時のことを思い出した。あの時は、たまたま週末が3連休になる前の晩、彼らと酒を飲んでいた時「どこかへ遊びに行こう」と、急に話が決まった。

夏のカルガリー
行く先はサスカッチワン州の西隣、アルバータ州のカルガリーで一泊して、郊外の農場に住んでいる農業移住者の日本人青年を訪ねることになった。美容師さん達は、カナダ移住の研修で彼と一緒になったそうだ。カルガリー近くのハイウェイを外れ、果てしなく続く小麦畑や牧場の間を走ると、畑の中に木で囲まれた広い敷地に大きな家が見えてきた。オーナーは日系人で、母屋の大きな家に住んでいた。青年はそこの農場で働いていた。移住後、故郷の新聞広告で花嫁を募集したそうだ。多くの応募者の中から、書類選考で残った女性と日本でお見合いをして結婚した。彼らは広い庭の一角に停めてある、古い大型バスのようなモーターホームに住んでいた。
真冬の今、厳しい環境で彼らはどうしているのか、北極圏から吹く風を遮るものがない雪原の真っ只中、若い夫婦には大変な生活だと思い、同情心がわいてきた。
アルゼンチン農業移住者回想
そんなことを想っていると、突然、二十歳の頃アルゼンチンを旅行した時に聞いた話を思い出した。旅行中に出会ったアルゼンチンへ移住した人から聞いた話だ。それは、あるアルゼンチンの田舎の農場で働いていた若い農業移住者が、日本に住んでいる日本人女性と文通をしていた。手紙にはパリに似たブエノスアイレスの街で写した写真や、豪邸の門前に立っている写真などを毎回同封していたそうだ。
とうとう文通していた女性と結婚することになり、彼は日本から来た彼女をブエノスアイレスの国際空港に出迎えた。ブエノスアイレスで結婚して、新婚旅行を兼ねて洒落たホテルに1週間ほど滞在したそうだ。その後、新妻を彼の住んでいる田舎の小さな家に連れて行った。周囲は畑だらけで隣家も見えない農場の一角だ。電気も無いので夜はランプの生活だった。数ヶ月が経ち、大雨が数日続くと、家の周りの肥沃なパンパの黒土は泥沼と化し、家の床も長靴で歩くほど泥で埋まった。新妻はいつも手紙に同封された写真とは違う現実にノイローゼになってしまい、日本へ帰ったという話だった。
カルガリーからロッキー山脈へ
農業移住者達の話を思い出しているうちに、大きなドライブインが見えたので給油することにした。ちょうど昼時だったのでレストランでハンバーガーを食べた。トイレを済ませて出発する前に、魔法瓶に熱いコーヒーを入れてもらった。運転中はカセットに録音した日本の歌謡曲を聴きながら、カルガリーへ向かった。道路は片側2車線で広く、反対車線とは離れているので安心して時速100kmくらいで走行できた。夕方、カルガリーに到着して早めの夕食を食べた後、郊外のモーテルに泊まった。
翌朝、十分な睡眠がとれたおかげで、長距離ドライブの疲れは感じなかった。モーテルの脇のレストランでトースト、ベーコンエッグにコーヒーの朝食を食べた後、ロッキー山脈に向かって出発した。道路が山の麓に近づくにつれて緩やかな登り坂に変わり、カーブが増えてきた。ある地点から坂が少しキツくなると、車がフラつき出して思うようにハンドル操作ができなくなり、直進するのが難しくなった。
車を停めてタイアを確認したが、特に異常は見当たらなかった。平坦な道路では感じたことがない車のフラつきは、多くの荷物で車の重心が後ろに偏っているのが原因ではないかと思った。雪の降る道路脇で汗をかきながら、トランクに入れた一番重たい工具箱を後部座席に移動した。なるべく重心が車の中央に来るように、その他の荷物も移動した。発進するとフラつきは無くなり、ハンドリングの違和感も無くなった。
今まで広かった道路は、中央分離帯のない片側1車線の両面通行になった。交通量は思っていた以上に多く、自分の前には車間距離を十分に取った乗用車が3台ほど、また後ろにも数台が連なっていた。見通しの良い緩やかなカーブで、対向車線に数台の車列が来るのが見えた。すると自分の車列の先頭車のブレーキランプが点いた。同時に後続車のブレーキランプも次々と点灯した。突然、2台目の車体が滑り出した。目の前の3台目も滑り出して、2台とも斜めになりながら対向車線に向かって滑って行った。対向車も驚いて急ブレーキをかけたため、ほぼ同時に3台の車が滑り出した。
ブレーキをかけた自分の車も滑りながら対向車線に入った。前から来た車が斜めになって自分の方へ向かって滑ってくるのが、スローモーションの映像のようだった。車のコントロールが全く効かないので、多重衝突するのを覚悟した。そう思った瞬間、自分の車は逆ハンドルが効いて、急に元の車線に戻り始めた。反対側の車も同時に向きが変わり、すれ違った。6台の車がスリップしたにも関わらず、奇跡的に何事もなくそのまま元の車列に戻った。バックミラーで遠ざかる対向車を見ながら、胸がこんなにドキドキしたのは久しぶりだった。
少し経つと、左カーブが急な所に来た。なぜか自分の車だけが道路の外に向かって滑り出した。あっという間に道路脇に積み上げられた雪の斜面に乗り上げた。車外に出ると、道路から1mくらい高かった。車を見ながらどうするか考えていると、後ろからきた3台の車が止まってくれた。挨拶を交わすと、すぐに5人ほど降りてきて、車を押して斜面から下ろしてくれた。皆、こんな事に慣れているようで、全員が旅の無事を祈りながら走り去った。
白い恐怖(ホワイトアウト)
段々と周囲の山が険しくなって来て、道路の左側は崖になってきた。短いトンネルをいくつか通ってくると、出口が見えないほど長いトンネルに入った。前方には車が走っておらず、少し離れた位置に後続車が数台つながっている様子がバックミラーで確認できた。トンネルから出た瞬間、目の前が真っ白になって景色が完全に見えなくなった。ホワイトアウトと言われる現象だ。すぐにハザードランプを点けて、後ろを確認しながらバックしてトンネル内に戻った。すると、追いついてきた後続車が次々と停車した。

雪山斜面のトンネル
しばらくトンネルの外を見ていると、後ろから一台の車が来て私の横に止まった。大型4輪駆動車のパトカーだった。窓が開いて、どうしたのか聞かれた。私は降雪で景色はもちろん道路も見えないので停車したと告げると、すぐに「先導するからついてこい。」と、言われた。パトカーの後について、雪の降る山道を1時間以上走り続けると、ガソリンスタンドが併設された大きな山荘風のホテルに着いた。
パトカーが止まり、警察官が降りてきて、「まだ時間は早いが、降雪が多いから今日はここで泊まっていく方が良いよ。」と、忠告された。駐車してホテルのレストランに入った。中は広く天井も高かったが、とても暖房が効いていた。レストランから外を見ると、後続車も続々と駐車して、多くのドライバー達がレストランに入ってきた。
頼んだスープとハンバーガーを待つ間、警察官に詳しい降雪状況を聞いてみた。「トンネルからこの辺の降雪が一番ひどいが、ここから2時間ほど先の峠を越えると降雪が少なくなる。」と、聞いた。今晩はこのホテルで泊まるつもりでいたが、できるだけ旅費を節約したかったから、昼食後にドライブを続ける事にした。雪中のトラブルに備えて魔法瓶に熱いコーヒーを入れ、ホテルの売店で水やチョコレートバーを買い込んでから出発した。
峠道での恐怖体験
雪路を歌謡曲を聴きながら慎重に運転した。積雪がひどいので心配になったが、トンネルから出た時のようなホワイトアウトになることはなかった。周囲の木々や道路もしっかり見えた。走るにつれて警察官の言った通り、段々と降雪量が少なくなってきて、山の周囲の景色も良く見えるようになってきた。そして峠を越えたらしく、道路は下り坂に変化した。かなり標高が高く、道路の左側は断崖絶壁になっていた。右側は岩肌に対して、雪だまりで3mほどの高い斜面ができていた。
しばらく走っていると、対向車線からコンテナを積んだ大型トレーラーが、ゆっくりと坂を登ってくるのが見えた。こちらは時折ブレーキを軽く踏みながら慎重に進んでいたが、突然、車が滑り出してコントロールを失った。車の後部が左に流れ、逆ハンドルを切っても斜めの姿勢のまま、対向車線へと向かった。大型トレーラーがホーンを鳴らしながら、ゆっくり一定の速度でまっすぐ登ってくる。滑る登り坂では重量級のトレーラーは止めることができないようだ。一度止めたらタイアが滑って、再発進ができなくなる恐れがあるのだ。自分の車は斜めになったまま滑り続け、ついに対向車線へ進入してしまった。

雪山のトレーラー
このままではガードレールにぶち当たって崖に落ちるか、100メートルくらいまで迫ってきた大型トレーラーと正面衝突するか、そう思ったがどうすることもできなかった。滑る方向に切った逆ハンドルを強く握りしめたままで体は動けなかった。大型トレーラーが目前に迫って、もうダメかと覚悟した瞬間、車体がスッと右斜めに動き、見事に衝突を回避した。ホッとした途端、車は岩肌に高く積まれた雪の斜面に勢いよく乗り上げ、横転して雪の中に突っ込んだ。全ての荷物が落ちてきて車内に散乱した。自分の体は頭が下になり、安全ベルトによって宙吊りになった。
運転席側のドアは雪で開かず、助手席側のドアも開かなかった。どうにか周りの荷物をどけながら助手席の窓から車外に出ることができた。車は雪の斜面のかなり高い位置でひっくり返っていた。一人ではどうすることもできずに呆然としていると、下り坂を降りてきた4台の車が止まり、車から出てきた人達が車をひっくり返し、雪の斜面から道路まで下ろしてくれた。
車のエンジンをかけてみると、セル1発でかかってホッとした。屋根や運転席側のドアが凹んだが、ガラスが割れなかったのがラッキーだ。手助けしてくれた連中に礼を言うと、そのうちの一人が麓の村の警察に事故を連絡しておくと言って、手を振って走り去った。事故証明が無いと保険請求ができないからだ。
車内の荷物を簡単に整理してからシートに寝転んで、両足をそろえて凹んだ屋根を押し上げた。ボコッと音がして屋根の凹みが直った。外に出て屋根を見ると、ほとんど目立たなくなった。走り出すと、残念ながらワイパーが壊れたことが分かったが、この程度で済んで良かった。3回も死にそうになったが、奇跡的に助かった。よっぽど強運に恵まれていると思い、この時から簡単に死ぬことは無いと、変な自信を持つようになった。
雨のバンクーバー
再び斜面を降り始めると、標高が下がってきたせいか雪がみぞれに変わった。タイアはほとんど滑らなくなってきた。ワイパーが壊れたので、窓を開けて左手でウェスで拭いながら小さな視界を確保した。不自然な体勢でなんとか麓近くまで来ると、パトカーが来て止められた。事故の報告を聞いて探しに来たらしく、先導されて村の警察に無事に着いた。警察署内で熱いコーヒーを飲みながら事故の顛末を口述し、事故証明書をもらった。その晩は警官に紹介された村の小さなホテルに泊まった。ベッドの中で生きているのが不思議なくらい、何度も危ない目から生還することができたと、想っている間に眠ってしまった。
翌日、もう雪は降っていなかったが、小雨の降る中をバンクーバーに向かった。広くなってきた谷間の途中から道路も広くなり、カーブも少なくなってきた。片側2車線で、対向車線も離れた道路になり、バンクーバーに近いモーテルに無事に到着した。流石に窓を拭きながら長時間運転してきたため、体は疲れ切っていた。夕食をとり、熱めのお湯に浸かって体をほぐした後、すぐにベッドに入って寝た。
翌朝も雨が降っていた。バンクーバーの冬は雪が降る代わりに、毎日雨が降ると友人が言っていたのを思い出した。仕事先に電話して午後、営業時間内に到着する旨を伝えると、修理工場までの道順を教えてくれた。ガソリンスタンドで給油し、売店でバンクーバー市内の地図を買ってメモした道順を確認した。
工場に着くとオーナーのY氏に挨拶をし、同僚の黒人系の年配のメカニックに紹介された。工場内は結構広かったが、メカニックは彼しかおらず、工場というよりはガレージと呼ぶに相応しいと思った。オーナーのY氏から熱いコーヒをもらい、労働規約や仕事の説明を受けた。営業時間後、オーナーに下宿先まで案内してもらい、仕事は翌週の月曜日から始めることになった。
下宿屋のオーナーも親切で、週末には夕飯をご馳走されることが多く、居心地が良いので下宿屋さんに半年以上も滞在した。結婚してからすでに1年も経ってしまい、イミグレーションに問い合わせると、手続きをやり直せということになった。どうも書類を紛失したようだった。いつまでも妻と離れ離れで暮らすのは良くないと思い、妻の住むメデジンへ移住することに決めた。
バンクーバーは大都会でも治安がよく、暮らしやすかったが、冬は毎日の雨が鬱陶しい。カナダの気候が好きになれなかったことで、カナダの生活や永住権に全く未練を感じることは無かった。妻と相談し、コロンビアの永住ビザは現地で仕事を見つけて労働契約を交わし、本国の移民局で直接申請することになった。話が決まるとすぐに少ない荷物や車を整理し、オートバイの工具だけは工具箱ごと船便で送り、1980年の秋、飛行機で常春のメデジンに向かった。
コメント