ビザは出るのか出ないのか?2
財団はいつもこんな調子で専門家を各国に派遣しているのか?日本の組織じゃ無いみたいだ。と、内心非常に驚く。たいがいの人はこういう状況で怒り出すかも知れない。しかし私は良い意味で驚いた。このようにフレキシブルに対応できる組織が今の日本にいくつあるだろうか。良く言えば機に臨んで変に応ず、悪く言えばいい加減なところが好きだ。だからきっと私如きも所属していられるのかも知れない。
去年の夏ドミニカから帰国して半年が過ぎ、たとえ基本給が毎月出ても仕事が無い状態で一人で日本に居るのは精神衛生上非常に悪い。閉塞感を感じる状況から早く自由な大地へ飛び出したかった。そして南米生活が長い私もK 氏の言うことがよくわかる。
かつての先進国アルゼンチンも所詮は南米の国なのだ。「出たとこ勝負で何とかなるだろう。」と言う気持ちが沸いたのも事実だ。それに私たちのような特殊なケースは大使館では取り扱えない。領事や大使が判断してビザを出すわけにはいかないようだ。要するに通常の業務しかできないことになっている。
私は「出先の機関では話にならん、彼らはマニュアルに書いてある当たり前なことしか答えられない。直接本国の外務省でやってもらえばいいのだ。ようするに親分が良いと言えばOK なのだ。」と、屁理屈言いながら、そして自らに暗示をかけながら着任したのだった。アルゼンチンにはパスポートをみせるだけで入国できたが、あくまでも観光客として3ヶ月の滞在が認められただけだ。
配属先の国立水産開発研究所で着任の挨拶の時にこのことを説明し、長期滞在できるビザの申請を要請した。しかし彼らもビザの取得に関して具体的にどうすればよいかわからず、協力事業団の専門家は日本側が取得したから、財団の専門家も日本の大使館と相談して取得してくれと言うではないか。
これに対して当財団は民間の財団法人で、アルゼンチンに現地事務所も無いからできない。と答えるしかなかった。そこで、長官がサインした覚書きにはアルゼンチン政府が専門家のビザの発給や、専門家の所有物の輸入に対する免税措置を行う。と書かれている部分を研究所のデブデブのおばちゃん部長に見せたら「まるで知らなかった。」だって。
ところで話がそれるが、ほとんどの南米の国では、あいさつは相手とほっぺを寄せ合い軽くチュと口づけをする。だもんで若いネエちゃんの時は気恥ずかしいがうれしくもある。しかし、さすがにこの部長には勘弁してもらいたくなる。やる気が失せる。しかしこれもプロジェクトのため、ひいては日本とアルゼンチンの友好のためにと、心を閉ざし内心目をつぶってキスをした。
駐車場などで彼女と会った時はわざと遅く歩いたりしてなるべく離れることにした。そうすれば目が合ってもニッコリ手を振るだけですむ。聞けば独身で、40はとっくの昔に過ぎているらしい。リーダーのOD氏は単身赴任なので、彼女の相手をしてもらおうかとカウンターパートに話したら、「それが良い、機嫌の悪いときに犠牲になってもらえば、必ずプロジェクトの仕事がはかどるようになる。」だって。
きっと彼らも内心彼女にあいさつのキスをするのが嫌なんだ。この国ではなんと親しいと男同士でもほっぺにチュをするではないか。さすがにこればかりは遠慮する。決して偏見と言うわけではないが、見ていて気持ち良い物ではない。
私はデブの部長に何も研究所がビザの申請手続きをしなければいけないとは言っておらず、長官から外務省や内務省などの関係各省庁にビザの発給を依頼するように、研究所の所長に連絡を取ってもらえばいいではないか。その方が今回のような特殊なケースは話が早いのではないかと言った。これに対して彼女は自信なさそうにビザの事は調べて見ると答えただけだった。
南米の国では額面通りに受け取って、下から書類を上げたらいつになるかわかったものではない。観光では3ヶ月しか滞在できないのだ。家を借りることも車を買うこともできない。そこで、この件については先手を打つことにした。財団に電話して理事長から長官宛に手紙を書いてもらった。 これは良く効いた。長官から研究所の所長に連絡が入り、早急にビザの手続きを行えと言う指令が来た。しかしその後がいけない。所長は単に人事部長を呼びつけてビザの手続きを行え、と命令しただけであった。犬が猫を追い、猫がネズミを追っただけだ。
人事部長は金髪のおばさんで40くらい、まだ無理しなくてもあいさつにチュができるので安心する。しかし事情を説明しても飲み込みが悪く、あまり頭が良さそうではない。デブの部長も良くなかった。能弁というより、手前勝手にでかい声で話をして人の話を聞かず、テーマがあっちこっちに飛んでしまいとても会議にならない。
部長連中がこんなレベルとは情けない。まともに組織が運営されているとは思えない。この辺の事をカウンターパート等に聞いたら、「長期的な計画や明確なビジョンなどもなく、これはアルゼンチン政府全体に言えることだ。」と嘆いていた。
金髪部長は、「何故財団が東京のアルゼンチン大使館でビザを取らなかったのだ。自分はビザの係りなんかでなく、どうして良いのかわからない。」と、涙目でグズグズ言うではないか。「大使館ではできない特殊なケースなので本国でやるしかないでしょう。」となだめながら事情を説明し、非情にも切り札の覚書きの写しを見せた。これは良く効いて助さんのような気分だ。彼女も観念するしかなかった。心許ないがまだ十分時間があったので、彼女に一任してこっちは静観することにした。
ビザを取るのは彼らの仕事で、決してコーディネーターの仕事ではありません。本件に関してコーディネーターは時々カウンターパートを介して金髪部長の尻をツツクだけでよいのです。
車探し3
今回はちょっと前にもどって車探しの続編から始める。ブエノスアイレスのトヨタ系商社の話では個人輸入をする場合前払いで注文を受けたあと、次の生産計画に一台追加して該当車を生産するので、アルゼンチンに届くまで軽く半年ほどかかると言われた。
ビザもいつになるかわからないため、無税の輸入手続きをすればいつ車が手に入るかわからない。待っている間にプロジェクトが終了してしまう可能性もなきにしもあらず。結局、一般のアルゼンチン人と同じく関税と車両税、消費税すべての税金がセットされたスズキのヴィタラを販売店で購入することにした。
インターネットで見たら、国内販売価格の1.5倍になる。しかし高いがすぐ手に入るし、売るときは面倒な手続きもなく、もちろん中古の相場も日本より高いので決して損するようなことはないはずだ。しかし一般の観光客と同じ境遇で本当に新車を登録できるのだろうか。ちょっと心配になったが、問題が無いと言う販売店の言葉を信じて、手付けを売って購入契約をすることになった。なぜなら4月以降ヴィタラはアルゼンチン国内で組立が開始されることになり、日本製の在庫が僅少になってきていたからだ。
ビザのない外国人はアルゼンチン政府が発行する身分証明書を持ってないので、自動車の登録をする際にCDI という身分証明コード番号を申請しなければならない。まず所轄の警察署に行ってパスポートを見せて住所証明をもらう。私は派遣先の機関である研究所の住所にすることにした。次にAFIP という事務所でパスポートとパスポートのコピー、入国スタンプが押されているページのコピーと住所証
明書を添えて申請する。
要するにこれは外国人を対象に新しく設定されたシステムで、車両税等をコンピューターで管理するための番号らしい。ちなみに現地人の同僚達もこの番号のことを知らなかった。申請に要するすべての手続きは移動も含めて2時間程度で終わる。新車登録は販売店で行ってくれるが、パスポートのコピーと取得した身分証明コード番号を添えて、申請書にサインすればその日のうちにナンバーが発行される。
この国の車両保険は高い。対人、対物、自損、盗難、火災等すべてをカバーするフルの保険は車両販売価格の10%以上になる。特に自損が高いので、自損を抜けば5%位になる。このためほとんどのアルゼンチン人は自損を抜いた保険に加入しているようだ。私もセールスマンや同僚から聞いたいくつかの会社から見積もりをとり、評判が良いと言われている会社の保険に加入した。保険金は10回払い、電話で即日加入できる。
販売店で簡単に説明を受けて新車を受け取った。いままで何度か新車をおろすことがあったが、私にとっては自腹で買った2台目の新車になる。予想以上にエンジン音が静かで、内装もほとんど乗用車と変わらない。別段新車を買ったという実感は無かったが、路上に走り出すと胸の奥から喜びが沸いてきた。
日本もここも景気が悪く、失業者の多いご時世において自分の現在の境遇に感謝する。週末に現地人の同僚二人を乗せて、マルデルプラタ近郊の小さなバルカサルという町にドライブをした。初回のオイル交換は2,500kmと指定されており、それまでは2,000回転に押さえて走ることにした。ステレオもCD プレーヤー付きで音質がよい。
日本では見られないがこっちではステレオの盗難防止のため、本体から前面の操作パネルの部分だけ取り外されるようになっている。厚さが2cm程度で専用のケースに収まり、路上駐車をするときは必ず取り外していく。またコード番号が記憶されているので、本体を盗んでも使えないようになっている。このアイディアはパイオニアが実用化したようだ。それだけ南米はカーステレオの盗難が多いという証明だ。
このヴィタラは日本製なので盗難防止アラームが付いてない。最初に買おうとしたゴルフははじめからオリジナルのアラームが付いている。キーも電子ロックだ。ヨーロッパもそれだけ自動車の盗難が多いという証明だ。ヴィタラにアラームが付いてないので市販されている物を付けてもらうことにした。工賃含めて確か2万5千円ほどかかった。何でも設計は日本の会社らしい。
これで安心して路上駐車ができる。良く考えられていて、窓を割ったり、アラームを解除せずにドアを開けようとすればアラームが鳴ってエンジンは掛からない。またもし強盗に車を盗られても、車の後方からリモコンスイッチを押せば40秒ほど走ってからエンジンが止まり、解除するまでエンジンが掛からないようになるらしい。その間にどこかに隠れて、賊があきらめて車を放置するまで待てばよいと言うことだ。そんなにうまくいくかなという気がしないでもない。
しかし路上駐車といえば街の中心街、セントロでは新車を路上駐車する事はやめた方がよい。前後を隙間なくビッタリ挟まれてしまい、一台の車が出るときは前後の車をバンパーで強引に押しのけて行くからたまらない。そういえばヴィタラのセールスマンはセントロでは必ずパーキングブレーキを外し、ニュートラルにしておけと言ってたっけ。
交通規則は基本的にアメリカと変わりはなく左ハンドルで右側通行だが、いくつか違うところもある。たとえば交差点で信号が赤の時は、日本の様に完全に停止して信号が変わるのを待たなければならない。前にいたドミニカではアメリカと同じで、赤信号でも右折するときは一旦停止して安全を確認し、OK なら曲がれたのだ。これは非常に合理的だ。
ここの対面通行の道路では、信号があっても矢印信号のない場所での左折は禁止されている。しかしこの場合、信号のない交差点なら左折ができる。また街は碁盤の目状に整備されており、主要道路を除けば一方通行が多く、信号のない一方通行同士の交差点では右手の車を優先させる。
交通標識や信号など非常に数が少ない。また横断歩道も少なく、歩道橋などは無い。歩行者は自分の安全は自分で確保しなければならない。要するに車の通行が優先されている社会であり、弱肉強食の世界だ。単純明快な交通ルールですばらしいではないか。しかし日本のように白線を描いて歩道だとしたせこい道路などは無い、どこでも幅が広く、路面より一段高くして歩行者が安全に歩ける真の歩道がある。
世界的F1レーサーの博物館
慣らしにでた郊外の町バルカルセまで小一時間のドライブだ。マルデルプラタの街を出れば、緑の牧草が地平線まで広がるパンパの中を道路が走る。天気も良く牧歌的な景色の中を爽快な気分で走れた。車速を80km程度に保っていたので、エンジン音も非常に静かで滑らかだ。一人で運転していたらすぐ眠くなることだろう。
日本で偶然に手に入れた30年代頃の南米の歌を収録してあるCD を聞き、当時の南米に思いを馳せながら色々な話をしているうちに、小さなバルカルセの町に着いた。ここはかつてアルゼンチンの国民的英雄であったF1レーサーのファンヒオの故郷だ。50年代のはじめにF1 レースでほとんど連続的に5年間優勝した記録的なチャンピョンだ。
今回の目的は彼を記念した博物館を見に来たのだ。実はアルゼンチン人に彼の話を聞かされても全く知らなかった。ちょうど日本ではホンダが整備屋から起業家として成功したように、ファンヒオは小さな町の整備屋からF1レーサーとして世界に躍り出た人物だ。どっちもすごい。
小さい博物館は手入れが良く行き届いていて気持ちが良かった。こんな小さな町にはもったいないくらいだ。館内は当時のレーサーや彼の愛車がたくさん展示してあり、マニアが見たら大喜びしそうな車ばかりで、見ていると一台欲しくなってくる。
ここを見学すると当時のアルゼンチンが確かに豊かな先進国だったのがわかる気がする。今、先進国であり、そして自動車大国の日本でさえ未だにF1 レースに優勝した日本人がいないのである。もう少し生活に余裕が持てる国になればチャンピョンも出てくることだろう。しかし働き続けなければ簡単に倒れてしまう自転車操業しているような国には無理なのかも知れない。
博物館を出たあと、公園の真向かいにあるレストランで昼食をとることにした。食前酒に赤ワインを3人で1本頼む。アルゼンチンのワインはどちらかといえばミディアムボディの飲みやすいタイプだ。ほとんどがチリとの国境であるアンデス山脈の麓近くの街メンドーサで作られている。実は25年前に1ヶ月ほど滞在して、地元の大学生からスペイン語を習ったことがある土地だ。
遠くには万年雪を抱いたアンデス山脈が見え、見渡す限り一面の葡萄畑に周りを囲まれたすごく綺麗な街だったことを鮮明に覚えている。いまでもとても綺麗な街だと聞いて何かとてもうれしくなってきた。当時の事はまたいつか機会があれば書くことにして先に進もう。
料理はビフェデチョリソと呼ばれる肉汁のしたたる柔らかいステーキを頼むことにした。見た目はちょっとこぶりだが肉の厚さが3センチ程あって400gある。野菜サラダに付け合わせのフレンチフライも頼んだ。ワインがちょっと飲み足らないのでハーフボトルを追加してもらう。
レストランの大きな窓から公園の木々の茂った景色を眺めながらする食事は余計にうまい。ここの物価は決して安くはないが、それでも一人あたり1,200円くらいだ。ちなみガリエルは技術職の国家公務員で今40才くらいになるが、月給が1,200ドルだと言う。給料が安いからと言って副業に勢を出していた。水質維持の技術アドバイザーとして働いており、2週間に一度くらいはブエノスアイレスの水族館にせっせと出かけていく。
帰路、自動車道からそれて湖に行く、水が茶色く濁っていて綺麗なところではないが、何人か湖畔にテントを張り釣り糸を垂れていた。また近くのシエラデロスパドレスという丘に立ち寄り、見晴らしの良い喫茶店でコーヒーを飲み、一服した後で家路につくことにした。その晩の食事はさすがに昼に食べたステーキを考慮してダイエットした事は言うまでもない。
つづきます。