C. エクアドル海亀案件(3/5)

7月29日(土)

前に書いたが煎ったコーヒー豆入りのチョコボールを食べたら、昔治した奥歯が割れてしまった。プロジェクトが終わるまで我慢しようかとおもっていたが、とても気になるので歯医者に行ってチェックしてもらう。治療には現金で、なおかつ前払いでディスカントしても約400ドルかかると言われた。清潔な歯医者なので安心したが、差し歯をする専門の歯医者はグアヤキルから週末くるので治すのに一ヶ月ちょっとかかる。しょうがないのでここで治すことにする。

朝から今日は何軒かアパートを見に行くが、どこもあまりよくなかった。一軒だけ海岸が目の前にある高台のアパートがあったが、残念ながら不動産屋を通さないと中は見ることはできなかった。アパートめぐりにも疲れ、昼食はマンタ近郊の小さな漁村へ行った。海際のレストランで魚のから揚げと、魚介類の入ったご飯をたべたが、あまりおいしくなかった。料理はコロンビアやドミニカの方が良い。アルゼンチンの料理はステーキとワインは絶品だったがそれ以外はあまりたいしたことがなかった。

夕方リリアーナに教えてもらった店で、海賊版DVD の映画を買ってみた。一枚1.5ドルで映像も音質もクリアで気に入った。事務所の前の路上で売っていた海賊版「カリブの海賊2」は、映画館で盗撮したもので、画質はひどいは、人の頭は移っているはで、とんでもない代物であった。

夕食はM君と久々に中華レストランで麺入りスープとグラスの赤ワインを飲んだ。アパートに戻るとさっそく買ってきた映画を見る。インド映画の名作ラガーンだ。何回見ても面白い。

7月30日(日)

久しぶりに遅い朝食を食べる。業務日誌を書き、日記も書くことにした。途中手を休めて、昨日買ったチャップリンの独裁者を見る。初めて見るが最後の演説はチャップリンの本音で話しておりすごいと思った。

日記を書いているうちにもう3時半になったが、腹が張っていて昼飯はキャンセル。ちょっと朝飯を食べ過ぎたかな。夕方になって腹が空いたら昼食兼夕食にカルボナーラでも作ろう。今日は一日中空が曇って涼しい日だった。

7月31日(月)

早朝、M君とマヌエル、リリアーナそれに3人のオブザーバーと一緒に、サンタマリアニータに行く。朝、例によって5時半に起きたので眠たい。サンタマリアニータでは今日はオブザーバーひとりを乗船させるために連れてきた。

釣針は交換してもオブザーバーを乗せたくないという船主がいるので、この村の協力的な漁師の家を探して説得してもらえるよう依頼する。その後で村はずれの砂浜で海亀が死んでいるというので行ってみることにする。車で砂浜に入るとタイヤが砂に埋まりそうなったので一旦はあきらめて戻ろうとしたが、リリアーナもマヌエルも見たがるので、砂浜に沿って出来ている未舗装の道路へ移動して車の入れるところまで行ってみた。

直に道路がなくなったので、車から降りて歩いて砂浜を岬の方へ行く。10分ほど歩くとほとんど甲羅と皮だけになった亀の死骸があった。もうほとんど肉もついてなく、腐った臭いさえもしなかった。近づいていくと死骸にたかっていた小さなカニがたくさん逃げて行くのが見えた。マヌエルが甲羅を棒で持ち上げるようにすると、硬いとおもっていた甲羅が柔らかいのに少し驚いた。M君に聞くとオサガメという種類は唯一甲羅が柔らかいのが特徴で、エクアドルの海岸では珍しいそうだ。

8月2日(水)

公金口座を開設することができた。昨日、マンタ事務所の紹介レターとパスポートコピーを持って銀行に行くが、初めに受け付けにいた姉ちゃんは愛想の悪い女で、事務的にこれだけでは開設できないので、他の書類もそろえて申請しろといわれた。他の窓口で順番待ちしていたM君に聞くと、顧客サービスの責任者に直接聞かないとダメということで、あらためて同じ書類で事情を説明したところ手続きを開始してもらえることになった。

責任者も女性であった。まったく同じ説明をしたのにもかかわらず、さっきの愛想の悪い女とは大違いであった。そんなに親切という程でもないが、かといって冷たくもなく、話が良くわかる女性で美形でもある。着任してからマンタで見た一番の美人だ。顔つきはアラブ系のような感じだ。たぶんレバノンかシリア系の移民の子孫だろう。

アラブ系の移民は中南米諸国でも永住者が多い。私は彼らの移住した背景を知らないが、どこで聞いても商魂がたくましく、アラブ人ではなくトルコ人と呼ばれている。なぜトルコ人なのか良くわからないが、移民の大半はオスマン・トルコ時代におこなわれたせいかも知れない?

この日、M君の公金口座を閉め5,000ドル程小切手を現金に代えた後で、残金を私名義の口座に入金することができた。ようやく夜になって彼の会計処理が終わり、公金の現金と口座残高を確認して会計業務の引継ぎを行えた。

8 月3 日-8 日

キトからメデジンへ、アエロ・ガル社が直行便を開設した。メデジンで5日の土曜日に予定されている息子の大学卒業・就職祝いのサプライズパーティに出席する気になった大きな原因だ。息子は特別に休暇をもらって東京からメデジンに来ていたが、パーティが行われる事は知らない。マンタを朝7 時半にM君と一緒に発ち、キトのシェラトンホテルで朝食をとる。キト発メデジン行きの便は朝の11 時半なので、ゆっくりM君と話しながらビュッフェの朝食をとることが出来た。

彼は協力事業団と日本大使館へ帰国の挨拶に出向き、夕方の便でマンタに戻る。5日の土曜日にはグアヤキルの水産次官に挨拶して、深夜発のコンチネンタルのヒューストン経由で日本に帰国する。一時帰国の予定が急遽帰国に変更されたことから、落ち着いて帰国の支度もできず、かなりバタバタしていた。こっちも業務の引継ぎを十分に行えなかったが、まあ、なんとかなるでしょう。

出国手続きも簡単にすみ、メデジンには1 時間ほどで着いた。なんかあっけない、ほんとにひとっ飛びという感じだ。それもこの便が開設第一便だとかでお土産に葉巻を一本くれた。コロンビア入国の際、税関ではいくらの現金を持っているか聞かれ、5 千から7 千ドルと答えたら別室へ連れていかれ現金を数えさせられた。気分を害したので嫌味をたっぷり言ってやったら、係官もとても嫌な顔をしていた。

空港の外へ出ると、私が着くことを知らないでいた息子と妻、そして親友のペドロが待っていてくれた。さすがに私の顔を見ると息子は驚きながらも喜んだ。ペドロの車で、肉で有名なレストランに寄り、アルゼンチン風の分厚いステーキを食べた。おいしかった。アルゼンチンの肉だともう少し肉汁が滴ってうまみがあるが、それでも久々の分厚いステーキをほおばりながら赤ワインを飲む昼食に十分満足できた。

1 ヶ月半ぶりに戻ってきたメデジンなので違和感もなく、空港のまわりの山の緑もすがすがしく感じられた。人も気候も景色もマンタとは大違いで何かみずみずしくて、とてもすがすがしい気分になれた。税関での不快感もようやく晴れた。この後、ペドロの別荘によって少し休んでからメデジンに向かった。

8 月4 日(金)

夕べはとてもよく眠れた。メデジンの気候はエアコンも暖房もいらない、本当に春か初夏の陽気だ。ペドロが貸してくれた小さなバンで、妻と息子、そして義理の姉とで、大学の夏休みで日本から来る娘を迎えに空港まで行くことにした。娘も私がここに来ているとは知らないので、出口から死角になる横の階段の方で隠れて待つ。娘が出てきて妻と抱きあったところ、私と目が合い、デブチンどうしてここにいるのだって。ここ数年来、息子と娘にはデブと呼ばれることが多い。ダイエットしよう。

8 月5 日(土)

この晩は息子のサプライズパーディをとあるレストランの2 階を借り切って行うことになっていた。メデジンから500km離れたカリからも義兄や、彼の末娘で息子のマドリーナ(God Mother)の一家が来てくれた。義兄とは2001年1 月のアルゼンチン以来の再会だ。

夜8 時から息子が来るまで待つ。息子はペドロ一家と一緒に9 時に着く予定であったが、9 時をすぎてもなかなか着かない。そのうち着いたと思ったら隣のレストランに行ってしまった。ペドロの携帯に電話してみるが、全然通じないので友人の一人が探しに行くことになった。

皆で扉の内側に隠れて待つ。息子が入ってくるとみんなでサプライズと言ってワッと取り囲む。息子もワーッと言って喜んで飛び跳ねた。こっちも無性にうれしくなってきた。9 時半にパーティが始まり、酒を酌み交わし、料理を食べ、音楽がガンガン鳴って盛大なダンスパーティだ。

数年ぶりに会う連中も居てとても楽しい晩だった。久々に朝の3 時頃まで踊って夜更かしをした。翌朝、体中が痛くて花祭りの大パレードへ行けず、家で一日中ゴロゴロしていた。飲み過ぎですごい下痢をした。下痢も久々なので腸内のよい掃除になったことであろう。

8 月6 日(日)

ペドロに誘われて彼の別荘に行き、奥さんのモナ(コロンビアでは金髪の女性をモナと呼んでいる。本名はマリーナだ。)が作るいつものサンコーチョをご馳走になる。大きななべと薪で煮込むが、どこのレストランで食べるものよりもおいしい。

サンコーチョは豚の骨付きのばら肉、鶏肉、ニンジン、ジャガイモ、ユカイモ、トウモロコシ等の煮込み料理で、ここの郷土料理だが中南米では似たような料理がどこにでもある。サンコーチョが出来るまでチーズやサラミをつまみにアルゼンチン産の赤ワインを飲む。

食後には久々に息子と卓球や、ビリヤードをして遊んだ。義姉の旦那のモノ(金髪の男性を呼ぶ。一度も本名で呼ばれたことは無い。)も最初は来ないと言っていたが、ペドロが誘ったら一緒に来てビリヤードをして遊んだ。義姉の末娘も始めは頭痛がするからと家に残る予定であったが、一緒に来て空気のよい山の別荘でサンコーチョを食べた後は気分が良くなったみたいだ。

8 月21 日(月)ムイスネ出張

昨日の夕方にコロンビアから戻ったばかりで、すぐ早起きをしてエスメラルダスの手前にあるムイスネ村に出張する。平成18 年8月21日~8月24日、1泊2日の予定で、スタッフ2名とムイスネ(エスメラルダス県)へ行き、零細漁業者を対象としたワークショップ、海亀大量死の調査を実施する事にした。

21 日月曜、早朝に業務車両にてエスメラルダ県ムイスネへ向けて出発する。目的地は前回の出張先のエスメラルダス市に近く、道路事情も把握していることから今回は運転手を雇わず自分で運転していくことにした。リリアーナとマヌエルから田舎の幹線道路には強盗がよく出るので、なるべく高速で走れと言われる。途中の未舗装の道路も、構わずに砂埃を巻き上げながらガンガン走った。

ムイスネは幹線道路から35km程度離れており、道路が突き当たる船着場が町の中心になっていた。周辺はマングローブが茂っていて、最初は河口に町ができているのかと思ったが、対岸は大きな島でボートやフェリーで渡れるようになっている。

到着早々漁業者が集会をするというガソリンスタンドに行く、電話でスタッフが連絡を取っていた相手はここのオーナーで非常に協力的であったが、漁業者の集会は直前でキャンセルされていた。船外機専用のガソリンが手に入らず、漁に出られないことから集会し、その際にワークショップを開催するという段取りであった。残念ながら私たちが到着する前にガソリンが届き、すでに漁業者達は漁に出て行った後だった。

そこでスタンドのオーナーに新聞やテレビで最近報道された海亀の大量死のことをたずねると、場所は島の反対側に位置する海岸で、まだ砂浜に放置されている死骸があると聞き、現場に行ってみることにした。島に渡り海岸に出てみると少なからずの観光客が泳いでいた。波打ち際に1頭の死骸が打ちあがっていたので写真を撮り、体長を測ってみながら観察したが、殴られた後や外傷、針がかりの痕跡も無く死亡原因が特定できなかった。

砂浜は南北に9kmほどあり、海岸はゆるやかな円弧状で湾になっている。島を横切る道路はちょうど砂浜の真ん中に出るので、北に向かって波打ち際を歩くと、200mほど先にかなり腐敗した死骸が見つかった。同じく測定をし、写真を撮って先に進むと300m先にも死骸が見つかった。

スタッフが測定している間に一人で先に進むと、200mくらいの間隔で海亀の死骸が合計36体見つかった。大半が腐っていたりミイラ化していたが、野良犬やハゲタカのような鳥が群がっている死骸もあった。しかしどの死骸も殴られた痕跡はほとんどなかった。

砂浜のゴミを掃除している人に話を聞いたところ、毎年この時期に海亀の死骸が浜に打ちあげられ、村役場が海亀の死骸を集めて穴に埋めたばかりだと言っていた。原因に心当たりがないか聞くと、常時5隻ほどのエビトロール船が操業しているので彼らではないかと言っていた。

FRP の小型延縄船は沖合30マイル以上も離れたところで操業しているので、海亀を捨てたとしても浜に打ち上げられる可能性は低い。また前の晩に死んだような亀が1頭見つかり解剖したが原因は分からなかった。外傷もなく、食道に針がかりした傷もなく胃は空であった。

翌朝、南側の砂浜を調べると46頭の死骸があった。1頭だけ弱っている亀が見つかった。前の晩に打ち上げられたようで体が乾燥していた。右前足の付け根に太目のポリプロピレンの糸がからみ、傷が出来ていた。糸を切取り波打ち際に戻すと泳ぎだしたので、そのままにして先に進んだ。

調査が終わり30分後に戻ってみると、波打ち際に先ほど逃がした亀が何者かに山刀で腹を上下一文字に切られて死んでいた。これでこの浜で見つかった亀の死骸は合計83頭になった。この1頭を何のために殺したのか理解に苦しんだ。

この海岸の他にも海亀の大量死が報道された海岸があるので行ってみたが、掃除をしたらしくどこにも見当たらなかった。土地の警察官に聞くと、ここでもエビトロール船の仕業ではないかという意見であった。彼の話では砂浜の北端に流れ着くというので行ってみたが、途中に川があって渡ることができなかった。

砂浜に打ち上げられた海亀を遺棄したのは、確かにエビトロール船が一番怪しいが証拠がない。また一人の延縄漁師の話によると、この辺の海域は7、8月に海亀がとても多く毎日延縄にかかるそうで、2年ほど前に配られたデフッカーはほとんど効果がなく、沖でかなりの数を撲殺していると言っていた。

この辺の漁業者全体の意識を変えるのは非常に難しく、彼らを対象にしたワークショップだけでなく、小学校などで子供たちを対象にしたワークショップを開き、漁業者が卵のうちに意識を変える必要があると、感じられた。また、ここもプロジェクトを実施していることを示すポスター等がまったく見当たらないことからプロジェクトの存在感が感じられない。メッセージを書いたポスターを作成する必要を感じた。

8 月23 日(水)

夕方6 時頃、マンタのアパートに帰宅すると(Edif. Bucaneiro、M君名義で10 月末まで契約され、11 月から私の名義で契約する予定であった。)、武装警察官が多数建物の内外を固めており、敷地内の駐車場に入ることができなかった。入り口の警官にマンションNo.9 の住人であることを説明すると、入室が許可された。

建物内にいた警官に事情を聞くと、大家が重大な犯罪に関係しているという説明しかしてくれなかった。住人は関係ないということで少しホッとした。警官の服装から対麻薬警察と察せられ、遅かれ早かれ強制退去させられるかもしれないと感じた。その夜は武装警官が建物内を警備していた。契約スタッフに連絡を入れ、財団本部に電話にて状況説明を行った

づづきます。

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