7 月19 日(水)
朝5 時半起床、外はまだ暗くて眠い、そして赤道直下の海岸にいるというのに朝方はかなり肌寒い。もう時差ボケもほとんどないのでこの時間に起きるのはつらかった。冷蔵庫にあった冷えたオレンジジュースを飲み、熟れた小さめのバナナを一本食べ、最後にコップ半分ほどの冷たい牛乳を飲んで朝ごはんとする。歯を磨き、ひげを剃ってから温かいシャワーを浴びる。髪をシャンプーしたあと、少しの間じっとして頭から背中にシャワーを浴びているうちに眠気がさめてきた。
業務車両のトヨタのランクル・プラドでオフィスまで行く、まだ朝が早いので車が少なく10 分もかからないうちに着いた。建物の正面の階段にオブザーバーが一人座って待っていた。昨日一緒に漁村へ行って乗船できなかった奴だ、愛嬌があるが名前は知らない。自己紹介を受けたはずだが覚えていない。事務所に入るともうすでに誰か来たようで灯りがついていた。すぐにインストラクターのマヌエルとリリアーナも着いたので、マンタ郊外のサン・マテオにプラドで出かけることにした。
現場に8時半に着き、すぐ釣針の交換が始まった。漁師と共同作業で一本ごとにJ 型をした通称J フックから、丸っこい形状のサークルフックに代えていく。サークルフックのほうが海亀の混獲が明らかに少ないということから漁師に釣針の交換に協力してもらっている。漁師たちが納得してもらえるまで時間がかかるのでなかなか根気のいる仕事だ。
作業を脇で見ていたところ、マヌエルが気を使ってくれて後で迎えに来てもらえればよいということで、事務所に一人で戻ることにした。帰りに道を少し間違えたが、なんとか事務所に無事に着けた。
事務所では会計関係の書類を整理し、キトへの出張手続きの準備をした。いくつかの資料を読みながら頭の中を整理していく。資料を読んでいるうちに色々なアイディアが浮かんでくるので、忘れないうちに書きとめておくことにする。
気がつくと11 時になっていて約束通り迎えに行く。今度はすんなり漁村まで行くことができたが、釣針の交換は残り2 割ほど残っており、マヌエルの休憩に合わせて村の小さな店で一緒にコーラを飲んだ。薄暗い店でおばさんがコーラと駄菓子を売っているが、棚にはほとんど商品がない。それでもコーラは冷蔵庫で満足するほど冷えていた。
釣針交換作業を見ていてもつまらないので、作業を手伝うことにした。マグロの針は大きくナイロン糸も太いもの(径2.6mm)を使っているので、糸は結ぶのではなく、アルミ製の小さなチューブに太いナイロンを通してハンドプレスという器具で圧着する。一度やればすぐできる単調な作業を延々と炎天下で行うのは想像以上に大変な作業だ。
ようやく1時半になって作業が終わった頃には右の腰が少し痛くなってきた。慣れないことをするとどこかに反動がでる。それも素直に年のせいにしないところが年なのかと思った。交換した釣針は91本であった。隣の船も自前でナイロンを交換していたので、一緒に釣針を圧着してあげた。結局釣針交換になんと5時間もかかったことになる。
午後は発注してあった針外し専用の器具を受け取りに行き、帰りにいくつかカーディーラーを回ってミニバンタイプの見積もりをもらいにいった。もちろん日本車を探していたが、ここではディーゼルのワンボックスカーは輸入しておらず、唯一こっちの希望をみたす車は韓国製のヒュンダイしかなかった。
少しがっかりしたが、値段も割安でオブザーバーを連れて近隣の漁村に出かけるには都合のよい車だ。もう一台車が必要なのは、プロジェクトの業務車両のトヨタ・プラドは来年3月にプロジェクトが終了すれば当国の漁業次官室に引き渡されてしまうからだ。
7 月20 日(木)
書き忘れていたがマンタの宿はM君の住んでいるアパートに泊まっている。自分のアパートが見つかるまで居る予定だが、もし良い物件がなければ彼が帰国した後も続けて契約して残ろうかと思う。新築のアパートで家具が付いていてとても便利だ。しかし3LDKで約200平米あり、一人で住むには大きすぎる。彼は家族を日本から呼び寄せるつもりだったが、治安が悪いのと教育水準も低いので、単身赴任に切り替えたと言っていた。
今朝は6 時45 分に起き、8 時15 分に事務所に着く。事務所の斜め向かいの路地に車を止めると、すぐに車を見といてやるというお兄ちゃんが出てきた。ウンと言ってアラームが入ったことを確認してから事務所に向かった。昼食時に車を出すときに25セントをやることにしている。
午前中はプロジェクトのロゴマークを考える。釣針の交換に応じる漁師はまだまだ少ない。プロジェクトの趣旨を理解し、協力してくれた漁師にお礼というわけではないが、他の漁師と差別化するため、またこの活動の普及のためにはキャッチフレーズの入ったロゴが有効になる。具体的には船に貼るステッカーと乗組員に着せるT シャツや、無線機のアンテナのついている竹竿の先に付ける旗なんかを製作する予定だ。
キャッチフレーズはこのプロジェクトの目的である、延縄漁業の存続のために海亀の混穫を減らすということから「亀を助けて漁業を守ろう」という意味のスペイン語にした。図柄は救命浮き輪を外輪にして、円の中が太平洋を表した地球になり、太平洋に海亀のイラストを配置した。
浮き輪にはキャッチフレーズを書き、色をどうするか迷ったあげく、実際の亀の色を表すのは難しいので、エクアドルで行っているプロジェクトであることからこの国の国旗の三色、赤、黄、青をメインに使うことにする。
今日は一日中このデザインを考えていた。帰宅時間になって文房具屋に寄り、色鉛筆やドローイングのペンなど買って家で色々と試した結果、浮き輪を赤にして目立たせ、背景になる太平洋を紺にし、右端に配置した南北アメリカと左端の日本列島を緑にして地球を強調し、海亀はまっ黄色にすることにした。
色の配色も悪くなくそしてよく目立つのでとても気にいった。こういう仕事は結構好きなので、時間がたつのが早い。明日もインストラクターと一緒に漁村へ行くので朝が早いので早く寝ることにする。横になりながら運転手と変わりないなと思いながらも、現場の漁師の話を聞くのも仕事のうちだ。
そうそう、乾燥コーヒー豆の入ったチョコレートを食べていたら、昔治した奥歯がかけてしまった。ちょっとあせったがこのプロジェクトが終わるまではこのままにしておこうかな。この国で歯医者にかかる気はまったくない。または年末に休暇でコロンビアに行ったら歯医者に行くことにする。
7 月21 日(金)
早朝、釣針交換の約束があった漁師の村(サンタ・マリアニータ)へ、マヌエルとリリアーナと一緒に行く。船の上げてある砂浜では多くの猟師たちが漁具の手入れをしていた。昨晩オブザーバーを乗せて帰ってきた船もあると聞いた。
マヌエル達が漁師を探している間、小さな漁具屋を覗くことにした。サークルフックは置いてあったが、私達の使っている針元に環っかの付いているものはなかった。米国GARMIN 社製のハンディタイプのGPS が売っており、値段を聞いたら160 ドルだそうだ。あまり高くない印象を受けた。マヌエル達が戻ってきて漁師がいないことがわかった。他の漁師と雑談をしながら30 分ほど待ったが現れる気配もないので、サン・マテオに寄ってから事務所に帰ることにした。
午後、リリアーナの友人の兄ちゃんが事務所に来た。彼はステッカーやT シャツを製作しているので、見積もりを作ってもらうことにした。自分の作った手書きのロゴと、ワードで作ったロゴの両方を見せて詳細を説明した。概算を聞くと今は大統領選でステッカーが多く使われていることから素材が高騰しているらしく、20x20Cm の物で200枚頼むと、一枚あたり約1.5ドルになるが、素材の値段を確認してもらってから見積書を書いてもらうことにした。
マンタの事務所はマグロプロジェクトがメインで、所長を含めて4 人の職員で運営され、オブザーバーを72 人使っている。海亀プロジェクトは財団で活動費を出しており、2 人のインストラクターにオブザーバー13人体制で運営されている。事務所で働いている所長も職員も、元はオブザーバーとして長い経験のある連中だ。着任したばかりで根掘り葉掘り聞くのも嫌なので、もう少し慣れてきてから経歴を聞いていくことにする。
キトの日本大使館で在留届を提出し、書記官に挨拶をしてからビザの登録も行うことにする。ちょうど23 日の日曜日にM君がアメリカから帰ってくるので、キトのホテルで待ち合わせ、月曜の朝に諸手続きを行うことにした。航空券やホテルの手配は所長のカルロスが地元の旅行代理店で行ってくれた。財団本部に出張伺いを出すのが遅れたがメールに添付した。
7 月22 日(土)
朝8 時半に事務所に出る。オブザーバーの報告書をもとにリリアーナとマヌエルが聞き取りしながら、データ整理をおこなうのに付き合う。さすがに一週間通うと路上に止めている業務車を見張っている兄ちゃんと顔見知りになる。午前中に25 セント、午後に25 セントやることにした。明日キトに持っていくパスポートのカラーコピー、紙のフォルダーや封筒などを用意した。
7月23日(日)
キトへ出張する。飛行場までタクシーで行き、空路40分程度でキトの国際空港に着く。航空券とホテルはマンタの旅行代理店で手配した。そのせいか、空港の出口でホテルの従業員が私の名を書いたプラカードを持って待っていてくれた。ホテルのシャトルバスでホテルへ行く、いちいちタクシーを捜して住所の知らないホテルへ行くよう頼んだりするよりはとてもラクチンだった。
キトには31年前にコロンビアとの国境からバスで来たことがあるが、旧市街の古くて内部がキンキラの教会に入ったことと、深夜にホテルを探しながら歩いた時がやたらに寒かったことしか覚えていない。しかし今回バスの窓から見る風景は首都なのに活気のない町に映った。
ホテルは5星のシェラトンで、小振りだがさすがに部屋もきれいでサービスもしっかりしていた。夜はホテル内のレストランでスペアリブを食べる。柔らかくておいしかった。深夜、M君がサンディエゴのラ・ホヤから戻り、レストランで一緒にグラスワインを飲みながら話をした。さすがにミッションに一週間以上も付き合っていたのでかなり疲れていた。
7月24日(月)キト出張報告概要
7 月23 日~7 月25 日(2泊3日)、23日、日曜の夜にM君がパナマと米国ラ・ホヤ出張からキトへ戻るスケジュールに合わせて、エクアドルのビザ登録(外国人登録)、身分証明書申請、無犯罪証明登録等一連の手続きと、日本大使館表敬のためキトへ出張した。
深夜、M君が到着してから、翌日のスケジュールと必要書類について打ち合わせを行った。翌日、24 日の午前中に外国人登録の手続きは済んだが、パスポートは翌朝に返却されることになったので私だけがもう一泊することになり、M君は予定通り24 日午後の飛行機にてマンタに戻ることにした。
外国人登録事務所を出てから、当国の国際協力庁の顧問として働いている協力事業団のH専門家に紹介された。元パナマ事務所所長をしていた方で、共通の知人がいることがわかった。親しみやすい温厚な紳士であった。
日本大使館では経協担当のH二等書記官に挨拶した。H書記官は大使館を通していない財団の技術協力に対して、あまり良い印象を持っていないようであった。大使館では日本として技術協力を一本化し、外交ルートを通じて対エクアドル政府との外交交渉を有利にしようと考えているようだ。
私は技術協力も色々なやり方があって良いはずで、現実に財団の海亀混獲削減プロジェクトはエクアドル政府からも国際機関であるIATTCからも高い評価を得ており、むしろ二国間の技術協力協定のなかで協力事業団だけが指定され特権を与えられていることのほうが現状に沿わず、日本側に不利に働いてるのではないかという話をした。
M専門家の方から当プロジェクトの背景や、目的、活動内容等の概況説明をしてもらったところ、プロジェクトの意義に共感を覚えたようだ。そこで私たちの方からプロジェクトが来年3月で終了することから、大使館で引き継げる可能性はないかと聞いたところ、優良な案件であるので現地政府から要請があれば考えたいと前向きな意見であった。
しかしよくよく考えてみれば、我々のプロジェクトは協力事業団 ベースでは出来ない運営形態であり、財団だからこそ実施が可能なのである。日本の技術協力を協力事業団に一本化するには無理があるように感じられた。現場サイドとしてはできるだけ大使館や協力事業団と支援し合えるような良好な関係を築いていくよう心がけたい。
翌朝、登録印の押されたパスポートを受け取り、外国人用身分証明書の申請に移民局へ出かけたところ、来月半ばまで申請手続きは凍結されていることがわかり、身分証明書が出なければ他の手続きも行えないので、身分証明書の申請手続きが再開されるまで待つことになった。
最後に日本大使館へ行き、依頼してあった運転免許証の翻訳証明書を受取り、マンタへ午後のフライトで戻った。
つづく