C2.漁業公社役員会

1.公社社長との確執

私が着任した時の公社の状況は、フォローアップ案件として桟橋の横に漁船を上架・揚陸する新しいスリップウェイの建設と、日産10トンのプレートアイス製氷機の設置が行われていた最中であった。そして到着を待つ資機材の中には、小型エビトロール船2隻、数台のディーゼルエンジン、部品、工作機械、その他FRP資材もあった。

私の活動は、全ての建設工事が終了し、資機材が日本から届いて全てが揃うまで待つしかない。時々、漁船の故障で修理工場長が相談に来たが、部品や適正な工具も無く、修理工場さえ無い中では指導する気にもなれなかった。彼には、日本から資機材が届くまでは、今まで通りに彼らだけで対応するように言った。

着任してからは、修理工場長を含めて5人いたメカニックの作業内容と技量の確認。係留中の9隻の漁船の故障状況を点検・把握し、操業中の漁船の状態も把握するように努めた。そして各船の状態と日本から届く部品リストを見ながら、部品が足りるのか、そしてどのように修理技術指導を行うか考えていた。

徐々に公社職員をはじめ借家の大家さんや、村のレストランなど、現地の人達と親しくなるにつれて、公社の過去や今でも起きている幾つかの不正、そして公社の社長代行の汚職疑惑など多くの話が耳に入ってきた。かなり真実味の高い内容の情報も聞こえてきた。また、村の中だけでなく、資機材の購入先である州都シンセレホの業者間でも有名になっているスキャンダルが幾つかあった。当然、公社の経営状況や、職員の雰囲気も最悪であった。

一月もしないうちに公社の実情がわかってくると、非常にやる気が削がれてしまった。あまりにも酷い実態にボゴタの協力事業団事務所の所長に会いに行った。所長に公社の実情を話し、鬱憤をぶつけた。私は漁業公社を日本の会社組織と比較しているのではなく、コロンビア国内の民間企業と比較しても酷い経営状況である。この状況が改善されない限り、私の契約期間の2年間は人生の無駄になる、と訴えた。私の話が終わるまでずっと黙って話を聞いていた所長が、「そうゆう状況だからこそ、あなたに来てもらったんだよ。」と、言われてハッとした。そして所長の一言に納得してしまった。

漁業公社社長は普段ボゴタの経済開発庁に勤務しており、現場は副社長に社長代行として運営させていた。今回はせっかくボゴタに来たので公社社長を産業振興庁へ尋ねた。彼には社長代行が運営する公社がどれだけ現地で酷い評価を受けているか話した。今回の案件実施に合わせて社長自ら現地で指揮を取るよう、速やかに経営体制を改善するように誠意を持って話したつもりであった。しかし、後で分かったのだが、副社長は社長の実の甥で操り人形であった。噂に上がっていた副社長の汚職の黒幕は社長だった可能性が高い。

私と公社社長との関係が、ボゴタで会った日を境に拗れてしまった。私はトルー村へ単身赴任をしており、社長代行に許可を得て月に2度ほど週末を利用してメデジンの家族へ会いに行っていた。もちろん協力事業団事務所の所長にも了解してもらっていたが、ボゴタ訪問以降、社長代行に許可しないと言い出された。

定期的に開かれる公社の役員会にもF専門家だけ出れば良いからと、役員会への出席も断られた。スペイン語が話せ、現地事情に通じている私を警戒しての事らしい。公社の親しい職員の話によれば、F専門家を含め、いまだかつてスペイン語で会議ができる日本人の専門家は一人も来なかったと言う。

ある日突然、公社社長が私の元へ来て、「なぜ働いていないのだ。故障した船をなぜ修理しないのだ。」と、厳しく詰問された。修理工場長が修理を手伝わない私は修理が出来ないと考え、私に対する不満を述べていたようだ。私にとって、彼こそ調子が良くて信頼が置けない人物であった。口先ばかりで実力の無い修理工場長だと、彼の人物も技量も見抜いて何も期待していなかった。

私は高飛車な社長の態度にカチンときた。溜まっていた鬱憤が噴き出した。「修理しろ?、私はあなたの部下でも無いし、直接修理するために派遣されたわけではない。あなたが提出した専門家要請書に何と書いたか、読み直したほうが良い。」と、言い返した。私の業務内容はアドバイザーとして、漁船及び施設の機械類の修理に対する助言、及び修理技術の指導と書いてあったのだ。

更に、冷たい目と手のひらを彼にむけて、「私は修理屋じゃ無い。こんな綺麗な手をした修理屋がいますか?」「修理してもらいたいのなら、なぜ修理技能者を要請しなかったのか…?。」と言い放った。そして、「日本側に約束した修理工場の建設はどうしたの?砂浜では修理技術の指導はできないでしょう?」私の返答に社長は黙ってしまい、顔面を蒼白にして事務所へ戻って行った。公社では修理工場を新設する計画があったが、資金難でいつ工事が開始されるのか分からなかった。

ある日、珍しい事に役員会から久しぶりに呼ばれた。会議室には8人ほどの役員が座っていた。何人かは既に顔見知りだった。その中に派遣が1年間延長されたF専門家も居た。当然ボゴタから来た社長も居た。社長からこの場で船団の状況を説明してくれと言われた。私は事前に聞いてなかったので、何の準備もしていなかった。

供与された漁船の18隻のうち9隻まで機関が故障して沖に係留されていた。時々起きる暴風雨で係留中の船同士がぶつかり合い、船体もかなり傷んでいた。そして初めて公社に来た時から係留中の船は1隻増えていた。公社が雇ったマリーンコンサルタントの調査によると、係留中の船は機関や電気、航海機器系統の故障だけでなく、船体の損傷もひどいため修理不能、廃船にしたほうが良いと報告された。

先ず、役員の一人からこの報告書について意見を求められた。確かにかなり船体の損傷が酷いが、FRP製なので船体修理は可能である。また必要な航海計器や電装品、部品、そして数台の新しいエンジン等、充分な資機材が日本から届くので、操業に復帰させることも可能である。その為に私がこの案件に派遣された理由だと答えた。

私はホワイトボードに係留中の船名を書き、1隻毎に船の状態を詳細に説明した。役員全員が、黙って私の説明を聞いていた。他に何も質問が出なかったので、私の方から逆に役員達に質問を行った。懸案となっている修理工場がいつ建設されるのか聞いてみた。

一人の役員が代表して答えた。「船の故障で操業できる隻数が減り、漁獲高が減ってしまった。かつて黒字であった経常収支が赤字になり、公社は財政難となってしまったのだ。」「よって公社の現状では、修理工場の建設資金を拠出することは不可能であり、修理工場は建設出来ない。」と、ハッキリ、そして少し悲しそうに言った。

私は、「それでは日本から到着する大型の旋盤やボール盤、その他の修理機材を設置する場所も無く、砂浜ではエンジンの修理もできません。」と、言った。これに対して他の役員が、「残念ながら、それらの機材は梱包したまま、敷地内に置いておくしか方法が無い。」と、他人事のように言った。他の役員が続けて、「漁業公社には産業開発庁が既に50%出資しており、これ以上の出資はコロンビアの法律で禁じられている。」という説明を受けた。

私は、「この案件の実施についてはニ国間協定で合意されました。」「協定の中に、修理工場の建設はコロンビア側の自助努力にて建設されると、ハッキリ書かれていますが、漁業公社が建設するとは書かれておりません。」「皆さんがご承知のように、協定は漁業公社ではなく、コロンビア政府として産業振興庁が署名したのです。」と、言った。

私は続けて「コロンビアの国内法で産業振興庁が漁業公社に対する出資額の制限があるそうですが、それはコロンビアの国内問題です。」「国内法を盾にしてニ国間で結んだ国際協定をないがしろにするのであれば、国際協定を締結し順守することはできません。」と言った。

「コロンビアが二国間協定を尊重するのであれば、国内問題は法改正をしてでも解決していだだく必要があります。」「しかしながら、この問題を早急に解決するため、産業振興庁に相談して特別な資金の手当を要請していただきたい。」と、結んだ。役員全員が私の気迫と正論に押されて黙ってしまった。私は、言いたい事だけ言って、会議室を退出した。

2. 新社長就任

ある日、社長室へ来るように言われた。部屋には見知らぬ中年の男性が一人居た。お互いに挨拶をすると、「私はボゴタの産業振興庁の職員で、漁業公社の新社長として任命されました。」と言い、洒落た革製の鞄を机の脇に置いた。社長が交代したとは知らずに少し驚きもし、着任早々、私に何の用があるのか訝しんだ。

勧められた椅子に座ると、新社長は熱い調子で漁業公社の再建をするために派遣されたのであり、最大の努力をすると言い出した。そして「それには、あなたの助言と協力がとても重要です。」と、言ってきた。また、私の業務はもちろん、他分野の業務や経営に対しても助言と協力をしてもらいたいと言い出した。今までの私に対する公社の対応から考えるとすごい手のひら返しだ。

まだ何者かも知れない相手に、本気で話しをする気になれなかった。私は少し冷たい調子で言い返した。「何か私に過度の期待をしているようですね。私と初めて会うあなたが、何故、そんな事を言うのですか?」「私について何も知らないでしょう?」と、聞いた。すると私と会うのはこれで2回目であり、初回に会った時によく知ることが出来たと言い出した。

初回とは、先だって開かれた役員会に彼も出席していたそうだ。全く気が付かなかった。突然、船団の状態を説明しろと言われ、初対面の人達に挨拶する間もなかった。そして普段の鬱憤を晴らすように、修理工場に対する意見を厳しい調子で言った事を思い出した。

新社長は、あの時の役員会の話をしてくれた。何と前社長が私を解任、帰国させるべく、役員会の議題にあげていたという。前社長は、私が専門家として適任者では無いと話していたようだ。着任してから修理もせず、メデジンに行ってばかりで責任感が無く、無能な人物と評していたようだ。その場で決議を取って、協力事業団と日本大使館宛に罷免してもらうよう請願書を送付する気でいたらしい。

役員の一人が決議をする前に、本人から直接話を聞いてみようと言い出したそうで、他の役員も現地の漁船コンサルタントの報告書も出ていることから、船団の状況及び修理、修復について意見を聞いてみようという事になったそうだ。

私が理路整然に船団の状態を一隻ずつ解説し、ハッキリと修理可能であると言った事に全員驚いたそうだ。そして、修理工場建設の正論に対して誰も反論が出来なかった事から役員一同衝撃を受けたそうだ。そして前社長の私に対する意見に誰もが納得がいかず、請願書などとんでもないという事になった。「あの時あなたの事を良く知ることが出来て嬉しかった。ぜひ私に協力してもらいたい。」と、言われた。

私は、F専門家から役員会の事は何も聞いていなかったので、内心彼の話に驚いた。まだ少し警戒しながら、「口では何とでも言えます。あなたの真意と誠意を態度で示していただければ、喜んで協力します。」と、言った。すると彼は「今この場で見せましょう。」と、即答した。

「この社長室は今からあなたが使用してください。」と、言いながら革の鞄を手に取って部屋から出て行こうとした。ギョとして、「いや、それは困ります。」と、止めた。それでも彼は、「ここはあなたに相応しい。私は他の小さな事務室に移ります。」と、言って、どうしても言う事を聞かなかった。

その日から広い社長室が私の執務室に変わった。その後、新社長とは公私共に親しくなった。彼のブレーンとして色々な面で相談を受け、公社の再建に協力する事になった。初めて新社長から受けた相談は、大きく重たいファイルに入っていた修理工場の本格的な図面について意見を求められた。そんな図面があることさえ知らなかった。私が着任する前から出来ていたそうだ。

翌日、社長に図面を見せながら問題点を解説した。この建物は修理工場として機能するように設計されておらず、鉄筋コンクリート製の倉庫として設計されたものであると指摘した。建物は頑丈で大きいが、入り口が狭く窓も小さくて少ないため、日中でも中は薄暗くてとても暑くなり、修理作業に対して全く考慮されていなかった。

社長は私の説明を聞くと頭を抱えた。とある建設会社に依頼して作った図面は以前F専門家が監修したとかで、図面の作成にはかなりの費用がかかったようだ。どうすれば良いか聞かれたので、私が修理工場のコンセプトや基本設計を考えてスケッチを描く事にした。そして地元の設計士に数枚の図面と、建設費用の見積もりを作成してもらう事になった。

新社長が就任してから初めての役員会でこの件について発表すると、役員会が騒然となった。大きなファイルの図面は入札までして作られたもので、すでに支払った高額な費用が無駄になるのはおかしいと言う意見であった。しかし、両方の全体図を見せて比較しながら説明すると、修理工場としてのコンセプト自体に大きな差がある事を全員が認める事になった。

新しい図面は私の基本設計を基に州都シンセレホの職業訓練校の先生が仕上げたもので、設計費用も大してかからなかった。建設費用の見積書を比較しても私のコンセプトの方は、最初のものよりも30%程度しか費用がかからない事がわかり、役員全員が唸ってしまった。最終的に、役員会で建設資金を産業振興庁に申請することが承認された。

その後、新社長の努力により産業振興庁から公社に対して追加の投資が特例として認められた。ようやく公社の新しい修理工場が、私が着任してから6ヶ月後に完成した。何とか、日本から届く資機材の受け入れに間に合うことができた。

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